憲法草案と憲法草案を作った理由は、こちらをご覧ください。

桐山憲法草案(第1版)

僕が会社を辞めて憲法草案を作った理由

ここでは、作成した憲法草案を章ごとに簡単な解説をしたいと思います。

第1章 国家の原則

憲法草案を作るときに意識したのは、「一般人が読んで腑に落ちる憲法にすること」でした。憲法は法律文なので、難しい言葉で書かれることが多いですが、憲法は誰のためのものかと聞かれれば、国民のためのものです。なので国民が読んで理解できるような条文にしたかったです。

この「第1章 国家の原則」は、17条の基本的な原則を記しました。この章を作成した理由は、憲法の全文を読まなくても、この章を読めば、国全体のイメージを持てるようにするためです。また、私たちがどういうことを大切にするべきかという指針にもなるように心がけました。

ここでは、1条、2条、3条を取りあげます。

第1条〔生命の尊重〕
生きとし生けるものは、尊重される。

この条文は、意外性を狙った奇抜な条文ではなく、自分たちの中に染み込んでいる感覚を成文化したものです。古くは神道の世界に「八百万の神」、仏教の世界に「一切衆生悉有仏性」という言葉があったように、昔からこの国に生きた人々は、人・動物・自然を問わず、そこに畏敬の念を抱いてきました。人間は自然を支配する主体ではなく、人間も自然の一部として一体となっていました。

「生きとし生けるもの」という言葉は、『古今和歌集』にある紀貫之の「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」からの引用です。「命ある人間ならば、美しいものを見たときに、美しさのあまりに思わず歌を歌ってしまうよ」と紀貫之は言っていますが、このような感性は大切にしたいです。

「命を大切にする」は小学生くらいから教えられていることですが、人類の歴史を振り返っても、なかなか実現できない理想です。人類の歴史は、ある意味では人を殺す戦争の歴史でした。また国家は、「最大多数の最大幸福」を目指す不可抗力の意思を持っているようにも感じます。国は、多数者のためならば、少数者を犠牲にしてしまうこともあります。

人間は生物学的な命をただ生きていれば、幸せなのでしょうか。経済的・物質的な生き方だけでなく、より文化的・より精神的な生き方ができなければ、充実した生命とは、言えないのではないでしょうか。

この条文は、生命が持つ力強さや美しさだけでなく、矛盾や葛藤をも意味します。

第2条〔和の国〕
日本は、和の国である。

世界の平和、自然との調和、人との和。聖徳太子は、『十七条の憲法』で「和をもって貴し」と語りました。そういうことです。

「和」は、この国を形容するにはピッタリではないでしょうか。「和」は集団主義の言葉だと思う人もいるかもしれませんが、「和して同ぜず」という言葉もあるように、個が強制的に同質になることではなく、個が発揮されて集団全体が活性化する状態が「和」です。また、日本の古語で「私」を意味する一人称を「わ」と言いました。現代語の「わたし」「われ」や琉球語の「わん」「わー」に名残りがあります。「私」という存在があって、そこに初めて「和」が生まれます。

私たちが普段何気なく使っている「和」という不思議な言葉を、もう少し意識したほうがよいと思います。英語で「和」を訳すと「harmony」「peace」「sum」「Japanese」となり、どれも一面的でしっくりきません。なので「和」は普遍的な概念ではなく海を簡単に渡れません。しかし、自分たちの国にある思想や哲学で社会を設計したほうが上手くいくのではないでしょうか。

「和」とは異質を前提に共存を図ろうとする姿勢で、それは相手の良さを活かせるような社会を作っていくことを意味します。また、個人主義、民主主義、平和主義、多元主義など、これらの概念が一つに収まってしまう不思議な言葉でもあります。

第3条〔日本国〕
日本は、祭祀を司る天皇、豊かに栄える国人および自然に満ち溢れる国土から成り立つ。

この条文は、国の由来を語ったものです。この「天皇」「国人」「国土」の3つの要素のどれかが欠けても「日本」とは、呼べません。そもそも「日本」という国号の誕生には、天皇が強く関係しています。もちろん人や国土が存在しなければ、国として成り立つことは不可能です。

ここでは日本という地域に住む全ての人間という意味で「国人」という言葉を使っています。「国民」とは、日本国籍を持った人という限定された意味で、近代国家上の概念です。私たちは、民主主義やら資本主義を海外から導入する以前から、日本という地域を治めてきました。近代国家の3要素は「主権」「国民」「国土」ですが、この条文は、近代国家という制度ができあがる前から存在した重要な事柄を確認しています。

4条以降は、国民主権・地方自治・子どもの保護・市場の自由・食糧とエネルギーの安全保障・学術振興・国土保全についての条文です。第12条の「役割分担」は「補完性の原理」を言い換えたものです。

この憲法では、「Nation」と「State」の違いを明確にしています。日本語では、これらの違いが、曖昧になってしまいます。日本の文化や国民や地域性など国全体を表す「Nation」の場合には「国」「国家」「日本国」という言葉を用い、政治的な機関としての政府を意味する「State」の場合は「政府」という言葉を使用しています。

第2章 天皇

この章は最も悩みました。「天皇」という存在をどのように理解し、どのように位置付ければ良いのか。天皇について様々な議論があるのは、承知の上ですが、僕はこのように考えました。

第18条〔天皇〕
天皇は、日本国の柱である。

天皇が「象徴」なのか「元首」なのかは、よくある議論です。まず確認しておきたいのが、現在の国際的認識では、天皇は「元首」です。たとえば、オリンピックの開会宣言は、国際慣習上、その国の元首が行うことになっています。過去、日本で開催されたオリンピックの開会宣言は、すべて天皇が行っています。その他の外交儀礼でも、天皇は他国から元首の扱いになっています。このような事実があるので、「天皇は元首ではない」と考えるのは、言葉じりの話のように思えます。

ただ自分は、憲法に天皇を「元首」と明記するのは、やめたほうが良いと考えました。日本の歴史を振り返った時に、天皇には様々な役割がありました。多様な役割があるのにもかかわらずに、憲法で「元首」としてしまうのは、天皇の多様な役割を矮小化し、さらには元首としての役割のみに固定化されてしまうのではないか、と心配したからです。元首としての仕事は、天皇の数ある仕事のうちの一つにすぎません。

福沢諭吉は『帝室論・尊王論』、三島由紀夫は『文化防衛論』、葦津珍彦は『日本の君主制』で、それぞれ天皇のあり方について論じています。そこには、その時の国民の多数決から選ばれた政府では、国民全体の意思を取りまとめることはできないため、国民全体の意思の取り集めには天皇が必要としています。また、日本の連綿と続く歴史や伝統や文化の保護者としての役割であったり、法律や行政という政治的な機関では補いきれない、温かみにある慈父のような役割を取り上げています。また、天皇は「四方拝」「新嘗祭」などを初めとする宗教的な儀式で、自然への感謝や国民の安寧を祈るような神主のような働きもあります。

こうした多様な役割を持つ中で、僕は天皇を「日本国の柱」と記しました。「柱」という言葉のチョイスは、『古事記』からです。『古事記』には、たくさんの神様が登場するのですが、その神様を「1柱」「2柱」のように「柱」を単位として数えています。昔の人は、柱に何か神秘的なものを感じていたのだと思います。日本の神様は、キリスト教やイスラーム教やユダヤ教などの一神教の「God」とは、概念が違います。一神教の世界では、基本的に人間は「God」になれませんが、日本では人間も神様になれます。日本では、慣習的に「ありがたいもの」「偉大なもの」「畏れ多いもの」を「神」と考えます。珍しい動画は「神動画」になり、サッカーのベレは「サッカーの神様」になるのは、みなさんが周知の通りです。

大黒柱という言葉もあるように、「柱」には何かの中心であったり、大切な支えのような意味も持ちます。これは言葉のニュアンスの話になってしまいますが、天皇が「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」というときに「象徴」はイマイチしっくりきません。「象徴」はとても抽象的で理屈っぽい言葉です。いくら説明を聞いても分かったような分からないような気持ちになります。「天皇は、日本国の柱である」という条文は、日本の代表としての行政的な役割、連綿と続く文化や伝統の中心的な役割、祭祀を司る宗教的な役割、国民の精神的なありがたい慈父としての役割など、天皇の様々な役割の存在をうまく表現できると思いました。したがって、憲法には、天皇をより広いイメージで捉えて、あとは時代に合わせて天皇や国民がその具体的な役割や仕事を調整して、決めればよいと考えました。

天皇は国の権威であり、政治的な権限は持ちません。そのため、政治上の責任を問われることはありません。このあたりは、現在の憲法と同じ解釈をしています。

第24条〔祭祀〕
天皇は、祭祀を主宰する。

この条文は「政教分離」の観点から議論があるだろうと思います。「四方拝」「新嘗祭」といった宮中祭祀は、現在の枠組みでは、国の公的予算を使っているのではなく、天皇の私費で賄われているという位置付けです。しかし、これも制度的な建前上の話で、実際には国民の税金が使われています。

そもそも国と宗教は厳密に分離できるものでしょうか。アメリカであっても、大統領の就任式では、聖書に手をかざします。また、ヨーロッパの一部の国々では、君主はある特定の宗教の宗派でなければ継承できないことが憲法や法律に明記してあります。日本のように多様な文化と長い歴史を持つ国では、さまざまな慣習が宗教と結びついています。神社への初詣も、寺院への参拝も、お盆も、正月も、宗教的な行事です。また、宮中祭祀では、どこか特定の個人や団体の利益のためではなく、国家や国民全体に向けての宗教的な儀式です。個人の信教の自由が侵されないのであれば、慣習的な宮中祭祀を公的に位置付けてもよいと思います。

また、かなり違った視点からですが、「国際テロ」の観点から、この条文は入れたほうがよいと考えました。そもそも「テロ」という言葉が一方的な見方で、立場によっては「自衛」や「正義」になりえます。国際テロが発生する原因は複雑であるため、それを特定することは困難です。しかし、経済的な貧困や格差だけはなく、宗教的な使命に基づく行為が原因となることもあります。そうした行為がその宗派の正当な解釈ではないケースもあります。日本として本当に国際テロに真摯に向き合うならば、まずは相手を理解することを重んじるべきです。経済的や歴史的な側面だけでなく、宗教的や文化的な側面からも彼らを理解するのが重要だと思います。その際に、民主主義や人権といった近代合理主義だけではなく、宗教や土着の慣習といった別の原理も幅広く理解できるというメッセージを発する必要があります。日本には、そのような多層な文化的土壌があります。このような理由からも日本は、宮中祭祀を憲法に明記したほうがよいと考えました。

第3章 安全保障

この章は安全保障についてです。安全保障は、9条や集団的自衛権の問題があり、議論が紛糾する項目です。僕は、このように考えました。

安全保障とは英語で「Security」を意味します。この「Security」という概念を紐解くと、最大多数の最大幸福で知られるイギリスのベンサムに行き着きます。このベンサムが法の中で「Security」という言葉を使い始めます。現在、安全保障というワードを聞くと「軍」「武力」といったものが結びつきますが、ベンサムが安全保障という言葉を使い始めた頃は、安全保障は「自由」「平和」に近い意味を持っていたようです。このときの安全保障は、国家の介入や暴力から自由であることを意味しました。つまり、安全保障は、「人権」として考えられてきました。

その後、安全保障は、国家や時代のあり方の変遷と共に変わっていきます。資本主義経済が発展していき、国内の格差が拡大していくと、憲法に保障された「自由」とは、貧しくなるための自由すぎなくなります。そのため、国家には積極的な格差の是正が求められるようになります。「社会国家」の誕生です。こうした変化から、安全保障も国家の介入からの「自由」から、社会的に生きるための権利を守るという文脈に変わります。これが「社会保障(Social Security)」です。時代は移り、フランス革命が起こり、ナポレオンと国民国家が登場します。この時代は、今までは軍人と軍人という限定された戦争から、国家と国家が国民や経済をフル動員して争う総力戦という戦争の形に変遷していきます。このときに安全保障は、国家や軍事と結びつき、「国家安全保障(National Security)」に移り変わります。この「国家安全保障」は、現在の一般的な安全保障を重なるものです。また、近年では、戦争の形が、以前の国家間の争いから、「国内紛争」や「テロ」を中心に変わってきています。また、地球温暖化や貧困の拡大といった地球規模の問題も生まれてきます。こうした新しい流れから、安全保障のあり方も「人間の安全保障(Human Security)」という考えが提唱されています。

このように安全保障とは、その時々の人間への脅威の形によって変化しています。安全保障には「リアリズム学派」「リベラリズム学派」「グローバリズム学派」という三つの潮流が存在しているようです。これは、どの潮流が正しい・間違っているという訳ではなく、安全保障のテーマによってバランスよく使い分けるのが良いと考えています。今後は、サイバー戦争など新しい形態の脅威に対応していかなければなりません。時代の変化に伴い、あらゆる脅威に対応できるようにするためにも、この草案では、まず安全保障の大きな目的を定義付けました。

第30条〔安全保障の目的〕
安全保障とは、個人の生存および尊厳に対するあらゆる脅威から解放することを目的とする。

次は、「軍事力」について考えていきたいと思います。戦車や戦闘機やミサイルといった軍事力を放棄すれば、平和は必ず訪れるのでしょうか。人類の歴史を見ていくと、必ずそうとは言えません。なぜなら、武力を否定したとしても、人間が持っている暴力性や攻撃性それ自体を否定することはできないからです。一例を挙げると、1994年にルワンダ虐殺が起こりました。およそ100日間に100万人もの人々が殺されました。そして、ここで使われた武器は、戦車やミサイルといったハイテクな武器ではなく、ナタや農具といった日常的な生活道具でした。人間は、武器があるから戦争や争いを起こすのではありません。戦争や争いがあって、効率的に人を殺すための武器が発明されていきます。人は、たとえ殺傷能力の高い武器を持っていなくても、何かしらの道具で人を傷つけ、殺してしまいます。このあたりの話は石川明人氏の『戦争は人間的な営みである』に詳しいので、ぜひ読んでみてほしいです。また、「抑止力」という考え方もあります。核兵器は、人類が生みだした、おぞましい兵器です。そして、この核兵器の存在によって、総力戦を起こすと人類が滅亡するという認識に到達しました。実際に、核兵器が登場してからの戦争は、第一次世界大戦や第二次世界大戦のような大規模な戦争ではなく、限定的な局地戦になっています。とても皮肉ではありますが、核兵器の存在が大きな戦争につながることを抑止しているという事実もあります。

日本の戦後の平和について見ていきましょう。日本は戦後の平和を謳歌してきました。「平和ボケ」と言われるくらい私たちは戦争から遠くにいました。この戦後の平和を9条のおかけだと考える人々がいます。自分も9条が戦後の平和に貢献したと考えています。しかし、そこには直視しなければいけない事実があります。9条には、コインの表と裏のような構造があります。そして、普段私たちはその裏面を気にすることなく生きています。コインの表に9条があるとすれば、コインの裏側には「アメリカ軍基地」「自衛隊」「沖縄」の存在があります。日本が戦後に平和であったのは、世界で圧倒的な軍事力を持つアメリカ軍基地が日本にあり、日本が自衛隊による自衛のための武力を持っていたからです。そして、日本のアメリカ軍基地の多くが沖縄にあります。日本が長らく安全保障の方針としていた「専守防衛」という考え方があります。簡単に言えば、日本が攻撃された時に、日本は自衛隊を「盾」として守備を担当し、アメリカ軍が「矛」になり攻撃を担当するというものです。日本が守備しか担当できないのは、9条の制約からですが、ここで気をつけたいのが、日本の安全を守るという大きな視点では「アメリカ軍による武力攻撃」を否定していないということです。沖縄には、米軍基地問題があります。沖縄は、複雑な背景や歴史を持っています。本土の人たちに対する特別な感情を持っていると思います。僕は、沖縄の問題にきちんと向き合い、解決の方法を模索するならば、沖縄の問題を隠している9条の構造に目を向けるべきだと思います。

自衛隊についてです。自衛隊は、国際的に見れば軍隊です。国内では、近年議論のあった集団的自衛権ではなく、個別的自衛権の行使は長らく認められています。日本に脅威が迫った時に、自衛隊は武力行使ができます。これを言葉じりで「自衛隊」「国軍」「国防軍」とするかの話はありますが、実質的には軍隊です。自衛隊は、公務員なので、政治的な発言ができません。そのため、自衛隊の方の声を直接聞くことは難しいです。しかし、自衛隊は日本の平和と独立を維持するために、文字通り命をかけて日々の訓練に取り組んでいます。厳しい訓練のために、毎年訓練中に殉職される自衛隊の方もいます。時代によっては自衛隊に対して、かなり風当たりの厳しいこともありましたが、東日本大震災を始めとする様々な災害場面で活躍する自衛隊の姿に、自衛隊に対する国民の信頼は高まったと思います。僕は、自衛隊の存在を憲法の中に明記し、彼らの権利や名誉をきちんと保障するべきだと考えました。その時の名称は「国軍」としています。

第31条〔国軍の組織〕
政府は、国家の独立と平和のために、国軍を組織することができる。

国民の中には「国軍」という言葉に対する心理的な抵抗は多くあると思います。この憲法草案では、国軍の武力行使に対して制約を作っています。

第35条〔武力行使の制限〕
国軍の武力行使は、次の全ての条件に該当しない場合、禁止される。
– 世界の道義に基づくこと
– 国際規約に準拠すること
– 個別的自衛道の行使もしくは集団安全保障における任務

これらの条件が全て満たなければ、武力行使はできないようにしています。お気付きの方もいると思いますが、2014年に閣議決定された「集団的自衛権」は、除外してあります。「集団的自衛権」は、まだ国民的な合意が取れていないと感じているので、もう一度議論をしたほうがよいと考えて、この草案では除外することにしました。

加えて、安全保障の章では、「他国の基地および軍隊の制約」を設けました。

第37条〔他国の基地および軍隊の制約〕
日本の施政下における他国の基地および軍隊は、日本の法の下においてのみ、その任務および物資の管理が許可される。

日本は、アメリカと日米地位協定を結んでいます。この日米地位協定で在日米軍基地の取り扱いが定まっています。問題は、日米地位協定は、行政協定のため法律や条約とは異なり議会の承認を経ていません。そして、日本国内における米軍基地へ持ち込む軍事兵器やアメリカ軍の軍事訓練には、日本の法律や条例によって制限や規制をかけることができないのが現状です。いわば、米軍基地は日本にありながら、日本の法の外の存在です。しかし、世界を見てみると、ドイツやイタリアでは、アメリカ軍の軍事演習は、国内の法の管理や規制を設けることができます。また、環境保全の観点から、アメリカに対して現状復帰の義務付けがされています。僕は、日米地位協定は、普通の国として、主権国家として、正常化するべきだと考えます。そのような問題提起を盛り込むためにも、この条文を入れました。

第4章 自由および道理

この章は、「自由および道理」についての章です。現行の憲法で言えば、「国民の権利及び義務」に該当する章です。実を言うと、この草案では、ある1点を除いて現行憲法の「国民の権利及び義務」と、ほとんど同じ条文を採用しました。その1点は、「right」の訳語を「権利」ではなく、「道理」に変更したことです。

「日本人は、権利意識が低い」と言われることがよくあります。僕は、「right」の誤訳が、権利意識がなかなか浸透しない原因の一つにではないかと考えました。「権利」とは「right」の訳語です。英語の「right」には、「権利」だけでなく、「正しい・当然な・正義な」という倫理的な意味を持ちます。一方で、「right」の訳語である「権利」という言葉には、このような倫理道徳的な意味が全く連想できません。

明治初期の「right」の翻訳事情について調べてみると、いろいろと議論があったようです。福沢諭吉は、「right」を「権利」と訳しては、日本の将来に大きな悪影響を及ぼすと警鐘を鳴らしていました。福沢諭吉は「right」を「通義」「権義」と訳すべきと考えていたようです。確かに「義」は「正義」「道義」のように、倫理的な意味を持ちます。というのも、明治時代以前に「権利」という言葉は、存在していました。そして、この「権利」は中国の『荀子』という儒教の書物で「権力と利益」というネガティブな意味で使われたようです。「子どもに権利を認めるのは、わがままだ」や「権利意識は、身勝手だ」という声を聞く言葉ありますが、このときの「権利」とは「権力と利益」の意味で捉えられているのではないでしょうか。また、権利を求める人々も「正義」や「正当性」だけではなく「権力と利益」を求めるような発想になってはいないでしょうか。

「right」をもう少し、掘り下げて調査をしてみますと、マグナ・カルタに行き着きます。マグナ・カルタは、1215年にイギリスで制定された人類最初の人権宣言とも言われます。マグナ・カルタはラテン語で書かれてしますが、ここで権利を意味する言葉として「jus/ius」が使われています。そして、この「jus/ius」には、「法」「正義」「権利」という三つの意味を持つそうです。つまり、権利という概念を生んだヨーロッパの土壌では、「法」「正義」「権利」は、同じ言葉で表現される親戚同士の言葉です。現代のヨーロッパでも、この名残りがありまして、ドイツ語の「recht」は「法・正義・権利」の意味を持ち、フランス語の「droit」、スペイン語の「derecho」、イタリア語の「diritto」は、「法・権利」の意味を持ち、英語の「right」は、「権利・正義」の意味を持ちます。

明治初期の翻訳作業では、こうした「right」や「jus/ius」の重層な意味やニュアンスをそぎ落として、「権利」という一側面のみに焦点を当てました。さらに、さきほどの荀子にもあるように「権利」とは「権力と利益」というネガティブな意味で使われていた言葉です。こうした言葉の混乱が、日本にきちんとした形で権利が浸透しない原因の一つではないでしょうか。そのため、この憲法草案では、「right」の訳語を変更することにしました。

もう1点だけ「right」の訳語が「権利」であるマズイ理由があります。「power」と「right」が混合してしまうことです。「power」は「権限」で、「right」は「権利」です。同じ「権」という字を使っているため、「立法権」と書いたときに、それが「power」なのか、「right」なのかが不明確です。「立法権」は、「Legislative power」と英語で書きます。つまり、立法権とは人間が生まれながらに持っている権利ではなく、法が与える権限です。権利(正義や道徳)を求める姿は、人間として、とても真っ当な行為なのですが、日本の場合には、それが「power」か「right」かで混合しています。その点も合わせて、「権利」は誤訳であると考えました。

もちろん、文化はそれぞれの地域の慣習や風土によって生み出されてきたものなので、翻訳によって全てをそっくりそのまま導入することは不可能です。そこには、言語という大きな壁はあります。こういう前提を踏まえて、「法・正義・権利」というニュアンスを持ちそうな日本語を探しました。そして「道理」という言葉を採用することにしました。慣習的にも「道理に合う・道理に合わない」のように、「正しさ」や「ルール」を示す言葉として使われます。また、明治時代の初期には、rightを道理と訳す人もいたようです。

rightを「権利」から「道理」に変更すると、このようになります。

【権利の場合】
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

【道理の場合】
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む道理を有する。

言葉のニュアンスになるかもしれませんが、「道理」のほうがしっくりきます。一般人からしても、難しい説明がなくても、そのまま理解できるのではないでしょうか。

「道理」を採用した理由は、言葉のニュアンスだけではなく、日本の法の歴史からです。鎌倉時代には鎌倉幕府が1232年に「貞永式目(御成敗式目)」という武家の法律を制定しました。この貞永式目に「道理」という言葉がでてきます。このように道理とは、日本の法の歴史の中でも、実績のある言葉です。また、貞永式目を見てみると、男女間の相続の平等や土地財産の所有権を記述するなど、同時代にイギリスで制定されたマグナ・カルタに引けを取らない先進的な法律であったようです。

このような理由から、「right」を「道理」と訳すことにしました。そのため、この憲法草案では、「生存権→生存道」「人権→人道」のように「◯◯道」と記しています。また、「right」ではなく「power」を意味する用語は、「立法権」「行政権」のように変更ありません。

最近の憲法議論を見ていると、「知る権利」や「環境権」といった新しい権利が議論されています。僕は、そもそもの「right」という価値観を社会的に浸透させることのほうが重要だと思いました。これは、西洋で生まれた概念を、日本の慣習や文化や制度に合わせて定着させる作業でもあります。明治維新には、偉大な先人たちがいたことは確かですが、間違っているものは積極的に正していくべきだと思います。「right」がきちんと社会に浸透すれば、「新しい権利」の議論も時代に変化に合わせて、自然な形で展開していくのではないでしょうか。

僕は、「right・権利・道理」は、公共的な価値だと考えています。そうした価値が積極的に社会の中で使われるようになれば、多くの人が幸せになると考えています。この憲法草案は、社会に対する提案の意味合いが強いです。そのため、思い切って「道理」と訳語を変更することで、「right」や「権利」を考え直すきっかけになれば良いなと思います。

蛇足です。鎌倉時代に「道理」という考えに大きな影響を与えた明恵という仏僧がいます。明恵は「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」という言葉に彼の思想のエッセンスを込めていたそうです。河合隼雄は「あるべきようわ」を、こんな風に解説しています。

「あるべきようわ」は、日本人好みの「あるがままに」というのでもなく、また「あるべきように」でもない。時により事により、その時その場において「あるべきようは何か」と問いかけ、その答えを生きようとする。

時代に奔走されながらも、自分の生き様を模索し続けた姿が思い浮かばれます。明恵は、こんな詩を書き残しています。「道理」は、人間観や世界観を表す言葉と言えるかもしれません。

あかあかやあかあかあかやあかあかや

     あかあかあかやあかあかや月

第5章 国会

一院制を導入しました。理由は二つです。一つは、現在はグローバル化や情報技術の革新によって、変化の速度が上がっています。そのため、国会における立法や審議もこうした変化に対応するためのスピードが必要だと思いました。二つ目が、選挙の意味を重要にするためです。現在は、衆議院と参議院の二院制です。そのため、衆議院議員選挙によって、政党が過半数以上を取って与党になり、内閣を組織したとしても、衆議院と参議院でねじれ現象が起こってしまえば、民意は反映されにくくなります。もちろん、国会のねじれ現象は、国会内でチェックアンドバランスが作用しているとも言えます。しかし、僕は、衆議院の総選挙によって示された世論が、国政に反映されるシンプルな仕組みにするのが良いと考えました。一院制にすることで、「選挙の民意」→「国会の多数派」→「内閣の組織」のように、分かりやすい構造にすることができれば、選挙の意味づけが重くなります。選挙とは、民主主義の基本であり、私たちの意見を国政に反映するための最大の機会です。民主主義の本位に戻るためにも、一院制が良いと考えました。

その他の変更としては、憲法に「政党」の存在を明記しました。現在の日本国憲法には「政党」の条文は存在しません。

第71条〔政党〕
1. 政党は、国民の多元的な意思表明に協力する。
2. 政党の結成および活動の自由は、保障される。
3. 政党は、活動に関する資金の収支を公開しなければならない。
4. その他の政党についての要件は、法律で定める。

政党は、私たちの税金を使って活動をしているので、こうした政党の存在を法的に位置付けて、政党の透明性を担保するのが良いです。また、政党は、議院内閣制の基礎的な組織であるので、憲法の中でも、その存在が制度的に保障されるべきだと考えました。

この憲法では、一院制です。しかし、参議院の意義を否定したわけではありません。参議院は、衆議院とは異なり、議員の任期が長く、解散がないため、長期的な視点に基づく立法や国政に対する調査や監視が求められています。しかし、現在の参議院は立法ができる権限を持っているため、政治闘争が生まれてしまいます。そのため、参議院の国政の調査や監視の機能を切り出して、「行政監査院」「財政監査院」という専門的な機関を設けることにしました。これらの監査院は、衆議院から間接選挙で選ばれる仕組みになっています。この草案では、二つの監査院しかありませんが、時代に応じて、「安全保障監査院」「地方分権監査院」といった国政において専門性のある機関を国会の元に柔軟に設置できるようになれば良いと考えました。このように国会に専門性を持ったメンバーから構成される機関があれば、国会での審議や法案の質が向上すると考えました。

第6章 内閣

この憲法草案では、「議院内閣制」にしました。「日本の政治制度はリーダーシップが発揮しにくいから、大統領制にするべきだ」という意見を聞きますが、制度的には大統領制よりも議員内閣制のほうがリーダーシップが発揮しやすいです。というのも、議員内閣制は、国会の議席の多数派から内閣のトップとして内閣総理大臣を指名します。そのため、国会の多数派と内閣は、同じ政党同士であったり、連立を組んでいる政党同士になるので、議院内閣制は、国会と内閣の対立は生まれにくい制度です。一方、大統領制では、議会と大統領が選ばれる方法は、それぞれ独立しているため、議会と大統領とは別の政党から選ばれると、対立が生まれます。このように本来は、議院内閣制は、リーダーシップが発揮しやすいシステムです。

では、なぜ日本の議院内閣制では、リーダーシップが発揮しにくいのかといえば、「内閣総理大臣の権限の弱さ」や「内閣と与党との認識のギャップ」などが挙げられます。そのため、この憲法草案では、内閣総理大臣の権限を明確にし、リーダーシップを発揮しやすい制度にしています。

第96条〔内閣総理大臣の職務〕
1. 内閣総理大臣は、国務大臣および行政各部を指揮監督する。
2. 内閣総理大臣は、閣議を主宰する。
3. ・・・
4. ・・・

第97条〔閣議決定〕
内閣の案件は、閣議で決定されなければならない。

第7章 裁判所

この章は司法についての章です。大きなポイントとしては、憲法裁判所を設置し、違憲審査ができるようにしました、従来の裁判所では、具体的な法廷の審理の際に違憲審査を行っていましたが、これでは訴訟が起こらない限り、法律の違憲性をチェックすることができません。そのため、違憲審査を可能にした上で、裁判所の役割を法廷での紛争解決だけなく、法規範の適合性を維持することも期待しています。

また、現在は最高裁判所の長官や裁判官は、衆議院選挙の際に合わせて行われる国民審査で罷免されるかどうかが決まります。しかし、この制度は形骸化しているように感じました。最高裁判所の長官や裁判官と憲法裁判所の委員は、国会に新設した「公職人事院」からの指名制によって選ばれるようにしました。「立法と行政は多数派のためにあり、司法は少数派のためにある」と言われることがあります。制度的な枠組みから外れてしまったり、多勢によって権利が侵害されてしまわないように、司法は常に弱者や少数者を救済するための役割を持っていてほしいです。最高裁判所の長官や裁判官と憲法裁判所の委員などの司法人事は、かなり法律の専門的な知識が必要です。このような専門性を身につけ、適切な判断を下すには国民にとっては負担が大きいです。そのため、国民から選挙で選ばれた国会議員が、公職人事院のメンバーを決定し、公職人事院の委員が専門的な知見に基づいて、司法の人事を決定するのが良いと思いました。このように人事を国会に移動することで、国民のための「積極的司法」を制度的に担保できるのではないかと考えました。

第8章 財政

財政の章は、「人間の尊厳の保障という財政の理念の明記」「基本所得(=ベーシックインカム)の給付」「予算案の権限(=責任者)の明記」「財政に関する情報公開と内閣の説明責任」「中長期的な財政計画の作成義務」「複数年度の予算計上の許可」などを盛り込みました。

現行の憲法では、人権や9条が注目されます。そのため、財政は、憲法の中ではマイナーな章かもしれませんが、政治の根本に関わるとても重要な章です。財政の制度は、国家の統治に関わる根本的な制度ですし、財政の中心を占める予算は「国家の意思」と言われます。国家の重要な役割の一つに「富の再配分」があります。国民から集めた税金を、公平性を実現するために配分するということです。この富の再配分に関わるのが、財政です。そして、予算とは、税金の分配を具体的に定めたものです。国会の議席配分が民意であるように、予算配分にきちんと民意を反映できれば、理想的です。

財政の教科書では、財政の機能は「資源の配分」「所得の再分配」「経済の安定化」の三つがあると書かれています。最近では、北欧の国々でベーシックインカムが実験的に導入される事例が増えていますが、こうした取り組みを見て、財政の根本的な思想には、上に掲げた三つの機能よりも深いものがあるなと思いました。また、日本では、生活保護の受給に関するいざこざのニュースが増えています。少なくとも、従来の再配分の仕組みは、国民に不公平感を生んでしまっていると言えます。そのため、生活保護を受給している人と受給していない人との分断を作り出しています。また、少子高齢化より一層進めば、世代間の不公平や分断は、さらに強まっていくでしょう。現在の社会保障や税制は、経済力(=お金持ちかどうか)というレベルで人間が仕分けられています。それだと、極端に言ってしまえば、「お金を持っていない=社会的に悪い」という価値観を植え付ける社会制度とも言えます。しかし、ベーシックインカムには、お金を尺度にするのではなく、一人一人の生き方を肯定するような人間の尊厳に関わるものがあるなと感じました。

第118条〔財政の理念〕
財政とは、人間の尊厳に守るためにあり、政府は、社会経済の健全な基盤を作ることを目指し、財政における適正な分配のあり方を追求し続けなければならない。

財政の理念をこのように記しました。こうした理念から、一人一人の生き方を肯定するベーシックインカムという富の再配分の制度が積極的に導けると考えました。もちろん、財政は個人へのミクロな視点だけではなく、産業や経済に関わるマクロな視点もあります。現在の日本の財政赤字は深刻で、少子高齢化社会の日本には財政再建が急務となっています。日本は、予算の効率的な使い方を目指しながらも、財政再建に向けて動いていかないといけません。このときに解決のヒントになるのが、「中長期」「集権化」「透明性」と思います。中長期的な計画に基づき、予算案の決定者を明確にし、財政に関わる情報を公開し、国会や国民に説明責任を果たしていけば、財政再建が少しづつ進んでいくと考えました。この機能を強化するために、予算・決算・財政政策を監督するための専門機関を国会に「財政監査院」として新たに設けています。

富をどのように分配するかは、国の一大事です。人口構造の変化や景気の変動に応じて、公平な分配ができるように、常に財政のあり方を検討し、修正し続けなければならりません。

第9章 地方自治

この憲法では、「第1章 国家の原則」にも地方自治を掲げている通り、地方自治を重要視しています。地方自治は「民主主義の学校」と呼ばれていますが、学校ではなく「日本発展の起爆剤」になってほしいです。この草案では、「自主財源」「自治憲章によって自治組織の方法を自ら決定できる」「地方自治の制度的な保障」など、地方自治の変革に期待を込めて、広い権限を保障しました。この章は、『ヨーロッパ自治憲章』『世界地方自治憲章草案』『フランス憲法』などを参考にしてます。なお、この憲法では連邦制ではなく、単一国家をモデルとしています。また、道州制の導入に対応できるような条文作りをしました。

地方自治の章は、昭和時代の農本主義者・制度学者の権藤成卿氏に影響を受けて作成しました。権藤氏は自治についてこのように語っています。

本来、我が国古来の自治というものは、民衆がその衣食住生活を基礎とする公同共存の信条によって、自然に結び合った状態をいうのである。従ってそれは、民衆によって生み出されたところの、民衆の生存の仕組みなのであって、他の誰かの命令によって生まれたものではない。

民衆は治められるのではなく、自ら治まるのである。すなわちその自ら治まるということは、民衆の義務であり、同時に権利であって、公同共存の生活を乱す者に対して、民衆が制裁を加えるのは、この義務と権利が発動した場合である。それ故に、この権能は自ら治まること自体の中に含まれてるのであって、これが真の自主権というものである。

自治体というものは、まるで国家の手によって、造られたもののようである。だが、本来の国というものは、人間の安全な生存のための集団生活が、漸次に村落の自治となり、村落の自治が郡県の自治となって、そうして郡県の自治が集まって、遂に一国となったものである。それ故に、自治体こそ一国の基礎単位である。

権藤成卿『行き詰まりの時代経験と自治思想』より

第10章 憲法秩序の保障

この章は、憲法が持つ「基本的人道(人権)の不可侵」や「最高法規」といった性質に加えて、「国務の透明性」と「憲法の改正および修正の制限」を追加しました。

第138条〔国務の透明性〕
1. 国民は、国務および国政に関する情報を知る道理を持つ。
2. 国会、内閣、裁判所およびその他の公的機関は、国民の要求に対して、その事務に関する情報を公開をする義務を負う。

情報公開は、国民の知る権利(道理)としても重要ですが、それだけでなく国として正常な状態を保つために必要であると考えました。公務員や政治家など公的な仕事は、市場における民間活動とは、異なる性質と思っています。民間の活動では、売上や収益によって、自分たちの活動に対するフィードバックが市場から返されます。そして、その数字に基づいて営業活動を修正してきます。一方で、公的な活動は、市場のように活動の結果を適切に反映するためのメカニズムがありません。したがって、自浄作用は各々の自助努力となってしまいます。こうした構造的な欠点を補うために、情報を適切に開示し、国民にチェックしてもらうことで、公的な活動を修正できる仕組みを積極的に憲法に位置付けました。市場のフィードバック機能は、政治家にとっては選挙が近いですが、情報開示がされれば、国民によって、より適切な選択ができるようになると考えます。

第11章 改正

憲法改正のプロセスは、現在の憲法を同様です。ただ、二院制から一院制になっているので、憲法改正のハードルは低くなっています。そのため、日頃の選挙の重要性が増してきます。