「発酵をもって尊しとなす」。僕は未来の社会のラフスケッチを描いてみようと思った。なぜ描くのかと聞かれれば、「やってみたかったから」と答える。

もちろん社会に対する問題意識はある。しかし、あまりにも深刻な状況から生み出されたものには、人を寄せ付けない鋭さがある。この鋭さが逆に人々の心を突き刺すことがあるけれども、僕が目指しているものは、一部の人々が同意できるものではなく、より多くの人々に深く染み込むものである。それは「今日は空は綺麗だね」と友達に投げかけられて「うん、そうだね」と言えるような風景であってほしい。僕のこの文章は、心の知れた友人との会話や日々の日常生活から感じたことや何回も読んだ本から、自分が考えたことである。だから、個人的に「やってみたかった」と言っても、僕が今生きている時代背景や社会状況の影響は多く受けているだろう。そうは言っても、最も大きな動機は、僕の心の中にある。この文字たちを自分の身から紡ぎ出すのが、僕にとって飾り気のないありのままの心の働きである。それでは始めてみよう。

僕は、今年の2月に憲法草案を書き起こし、発表した。憲法とは、国家を運営するための大きなルールである。近代的な意味の憲法の成り立ちは、中世イギリスまで遡る。当時の君主が自らの領土を拡大するために、貴族や諸侯たちに過重な徴税と徴兵を繰り返していた。その君主の暴政に反発した貴族や諸侯らが、一国の王と言えども、合意のないまま勝手に課税をしてはいけないというルールを王に求めたのである。その経緯から国家が持っている権力を縛るという憲法の一つの機能が発達した。この考えを立憲主義と呼ぶけれども、それ以外にもその国の歴史的な由来を語ったり、自らの国のルールは自らが決定するという独立宣言のような意味合いを憲法は持っている。私たちの権利や自由を国家から守る立憲主義という考えは、現代社会に不可欠であるけれども、この点を強調しすぎると、憲法や法が持つ本来の役割を見失ってしまうのではないだろうか。有機的な集合である社会を「人民VS国家」という対立軸だけで眺めてしまうことは、本当に有効なのだろうか。僕は、社会の特性を理解し、社会が国家に求める役割を整理したほうが良いと思う。

では僕たちの社会はどのような姿をしているのか。社会は、経済生活、精神生活、政治生活の3つの部分で成り立っていると僕は考えている。社会を3つに分けるこの見立ては、19・20世紀にオーストリアやドイツで活躍した思想家のルドルフ・シュタイナーを下敷きにしている。シュタイナーは、社会を3つのパートに分けて、それぞれが自律と協調をすることによって、生き生きとした社会が実現するという「社会有機三分節説」を提唱している。彼が「社会」に「有機」という言葉をくっつけたのは「社会は人間と同じ生き物である」という前提がある。社会の一つの単位が僕たち人間である。僕たちも生き物なので、僕たちが集まってできる社会も同様に生き物と言える。だから社会は良い方向に進むこともあれば、悪い方向に進んでしまうこともある。それは、人間が体調を崩して病気になることもあれば、元気ハツラツに多産的な生活を送ることと同じである。僕たちは、健康的な社会をどうやって作り出し、継続できるかを工夫していかなければならない。

経済生活は、僕たちの社会の基礎を担っている。僕たちは食べ物がなければ生きていけない。お腹が空けば、スーパーで食材を買ったり、外食へ行く。当たり前のことだけれども、スーパーで食材がズラッと並んでいるのは、経済活動が正常に循環しているからである。生産者によって作られた食材が流通を経て、スーパーで販売され、僕たちが仕事で稼いだお金を払って購入する。食べ物一つとっても、農業、加工業、流通業、広告業、販売業など多岐にわたる分業によって経済は形作られている。もし一連の経済プロセスのどこかに不具合が生じてしまったら、今までと同じ値段で食材を購入できなくなる。もちろん食べ物だけではなく、人間の生活に必要な物資は経済活動によって供給されていることが理解できる。

政治生活は、法やルールを定めることによって、社会に公平性を実現する。さきほどの話の続きで考えてみよう。農家が収穫した食べ物をスーパーで売るためには車で輸送する必要がある。通っている道路が経年劣化でボコボコになってきたとしよう。車がその道路の山に乗り上げた時に、荷台の商品に傷つくと経済的な負債になってしまう。道路は流通業者だけではなく、その他の人々も使う公共のものであるから、人々から集めた税金で修理してもらわなければならない。このときに国民や市民から集めた税金を道路修理に当てるのが予算であり、政治家がその予算を決定する。予算が潤沢にない状態でボコボコになった道路がたくさんできてしまうときもある。その際には、交通量や経済性を考えて、優先度を決定する。交通量が少ない道路の修理は先送りにされる可能性が高いだろう。誰も使わない道路に多くの税金が使われていれば、僕たちは不平を感じるだろう。それだったら交通量が多い道路整備や教育や福祉に税金を回してくれと。このように政治には公平性が求められる。そして、その公平性を最終的な根拠は、僕たちの民度や常識である。

最後は、精神生活である。感情や理性など目に見えないものが自分の人生に大きな影響を与えているように、精神生活は社会を変革する根源的なエネルギーとなる。精神生活とは、学問や芸術や思想であったり、僕たちが生きる上で大切にしているポリシーであったりと、人間の内面に関わる活動である。例えば、昔は荷物を馬車や人力で運んでいた。けれども、人類は蒸気機関車を発明し、動物や人間に代わる動力を生み出した。蒸気機関車の登場で、社会の物流は大きく変化し、以前よりも早く多くのものが運べ、社会の隅々まで物資を配分することが可能になった。この蒸気機関車を発明するプロセスが精神生活である。蒸気機関ができるまでには、様々な人々による研究が積み重ねられただろうし、思いつきや失敗などが思いがけない幸運の働きをしただろう。科学の発明だけでなく、ロックスターの歌が僕たちの生活をより豊かにしてくれることもある。ある一曲によって人生を救われたを思う人も多いのではないだろうか。こうしたことは全て精神的な活動である。そして、この精神生活は誰からも管理されたり、強制されるのではなく、情熱や主体性によって育まれることを望んでいる。

僕たちの社会は、経済・政治・精神の3つの活動から成り立っている。それぞれが健全なバランスを保ち、協調している場合に、社会は良い方向に発展する。そして、社会の一つの部分である政治生活から社会を見た時に、政治生活が行うべき役割が見えてくる。一つは、政治は経済生活や精神生活を管理してはいけないこと。もう一つが、不平等が社会に生じた際に権限を移動すること。国家が人々の経済活動であったり、学問や芸術などの人々の精神活動を管理したとすれば、何が起こるのか。そうした状況からアインシュタインやスティーブ・ジョブズが生まれるのかを考えてみたら自ずから分かるだろう。政治とは法を制定し、予算を使うことであるから、経済生活とは原理が異なる。書店で手にする情報誌と公民館で手にする行政の広報誌を見比べてみれば、両者の性質の違いが分かるだろう。また、政治家は経済界の利害関係者の代表者ではなく、国民全体の代表者であるべきである。経済生活が政治生活を支配するようなことは、多くの国民にとっては不幸である。そして、憲法とは、政治生活の根幹を担うものであるから、このような政治の原則が憲法に記されるべきである。

経済・政治・精神のバランスが乱れたときに、社会は停滞し、人々は疲弊する。それぞれが活動をしているにも関わらずに、社会が良くなるどころか悪循環に陥り、腐敗が進んで行く。社会も生き物であるから、腐敗の反対を目指せば良い。腐敗の反対は、発酵である。日本酒の醸造家である寺田啓佐氏は発酵の世界をつぶさに見つめてこのようなことを書いている。

微生物たちは自分の出番になるとスッと出てきて、スムーズにバトンタッチが行われ、出番でもないのにでしゃばったりはしない。そんな謙虚さも兼ね備えているし、それぞれが相手を尊重しながら生きているのだ。「オレが、オレがの世界」ではなくて「調和の世界」がそこにはある。『発酵道』より。

微生物の世界では、このような状態がすでに実現している。この文章の「微生物」を「人間」に置き換えられる日はいつ来るのだろうか。人間は、微生物よりもレベルが低いのだろうか。社会や政治が腐っていると言うのは、簡単である。それをどうやって良い方向に変えていくかを工夫することが、現代に生きる僕たちに求められている。発酵は、小さな生き物が教えてくれた偉大なビジョンではないだろうか。

【追記】
ブログを公開後に友人から以下の意見を貰ったので、記しておきたい。
  1. 「精神生活」は理解しにくいので、「文化生活」のほうが一般的ではないか?
  2. 社会有機体説は、シュタイナー以前にもコントやスペンサーが唱えていた。彼らの論との違いは、何か?

つづく