僕たちは本や資料館など過去の物語を知ることができます。けれども、本や資料館があるのは、積極的に過去の歴史を残そうを行動した人々の存在があったからです。歴史は自動的に語り継がれません。一人の証言や日記、一枚の公文書など小さな資料が膨大な数が集まって、物語を紡ぐことができます。国家として歴史を残すとは、一体どのような意味を持つのでしょうか。

台北の二二八和平公園内にある「台北二二八紀念館」へ言って来ました。二二八事件のことが学べる良い場所です。また、台北には「二二八国家記念館」と呼ばれる国が管理している別の紀念館もあります。この二二八紀念館は台湾の民主化の歴史を考える上で、とても大切なスポットだと思います。二二八事件をWikipediaで調べてみると「二・二八事件は、1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、中国国民党政権による長期的な白色テロ、すなわち民衆弾圧・虐殺の引き金となった事件。 」とあります。

僕も日本で台湾についての本を読んでいたとき、二二八事件は知っていました。二二八事件という台湾の現代史で最も重大な悲劇があったことは認識していましたが、二二八事件が台湾の民主化の歴史の中でどんな意味を持つのかという時代の視点で見ていませんでした。二二八事件の前に何が起こったのか、そして事件の後はどうなったのか。二二八紀念館へ行くと、この事件の意味をとても立体的に理解することができます。

僕の知る限りでは、二二八事件は語る人によって意味が大きく変わってくる事件のようです。まだ事件から70年しか経っていないこともあり、時代が浅い出来事なので仕方のないことかもしれません。今回は、台北二二八紀念館の視点で二二八事件を触れていきたいと思います。

二二八事件を台湾民主化の文脈で見ると、このように評価することができます。「日本の植民地時代から起こっていた民主化を求める運動が、この事件によって政治改革として結実し、そして挫折しました。けれども、民主化の要求は止まることを知らず、無党派層や国民党の党外の人々を巻き込みながら、民進党の結成の一つの流れとして繋がっていきます。」

台湾の民主化は、1920年の日本植民地時代まで遡ります。日本へ留学していた在日台湾人が中心となって「台湾新民会」を結成します。この背景として1918年にアメリカ大統領のウィルソンが民族自決をアメリカ議会で発表したこともあり、民族主義の高まりがありました。この台湾新民会は「六三法」の撤廃を求めていました。当時の日本植民地の台湾総督府には、台湾総督府が行政権で法と同等の命令を発布できる特権が法律第63号で認められていました。このように日本に留学していた在日の知識人たちを中心に台湾の自治権や植民地の平等を求める運動が始まります。

その後、1921年には台湾に議会を制定する「台湾議会の設置の請願運動」が起こり、14年間で15回も日本の中央政府に請願を求めます。そして、1927年には「台湾民衆党」という台湾で初めての政党が結成されます。この政党は半年の間で台湾全島で15の支部を作るほどの勢いがありました。しかし、この台湾民衆党は、1930年に起きた霧社事件の後に新着した台湾総統によって解散を命令されます。この後も台湾人の民主化運動が続き、1935年には州、市、町などで制限選挙として、初めての選挙が実施されます。この時の投票率は95.9%でした。(台湾人400万のうちに選挙権があったのは、28,000人)。

台湾議会の設置の請願の内容

台湾第1回選挙の様子

このように台湾における自治運動が高まりますが、この動きは第二次世界大戦によって中断してしまいます。僕は二二八紀念館で借りた日本語の音声ガイドは、第二次世界大戦について「台湾は戦争の道具になった」と表現していました。「皇民化運動」「愛国総動員」も、日本が台湾人を戦争に巻き込むためだったと、この紀念館では伝えていました。

日本の植民地時代、台湾人は政治的な自治権を求めていました。そして日本が敗戦に伴い、台湾は中国に復帰することになり、祖国復帰に台湾人は期待に胸を膨らませます。しかし、台湾人の期待を裏切るように、中国国民党の圧力的な統治が始まります。この期待の裏切りが二二八事件が起こる遠因となっていきます。

国民党による台湾を統治の担当になった陳儀は、台湾は北京語ができないという理由で政治的なポストから多くの台湾人を排除しました。また、経済的にはタバコ、酒、マッチなどの高利商売を政府の専売にして、民衆と利益を争うようになります。また、軍や警察の腐敗も目につくようになり、台湾と中国本土の文化の違いや言語の壁がお互いの不信感を募らせることになります。陳儀は北京語にこだわりがあったため、国民党の統治が始まってから一年後には日本語の放送や出版を禁止します。このような国民党による急激で強引な統治は、台湾民衆の不満を高めます。

当時の台湾では失業が多く、民衆の生活は苦しい状態でした。そのため、路上で民衆はマッチ売りをしていました。マッチ販売は政府の専売のため違法行為でしたが、民衆は生活のためにマッチを売らざるを得なかったのです。

当時のマッチ売りの再現。箱の中には当時売られたタバコの銘柄。

そして、悲劇が起こります。2月27日にマッチ売りをしてた女性が警察に逮捕され、所持品を没収されます。それだけでなく、警察は銃で女性を殴りつけました。この行為に民衆たちは怒り奮闘し警察に駆け寄ります。慌てた警察は威嚇発砲をしますが、その一発が事件とは無関係の台湾人の一人に命中し、死亡してしまいます。さらに、この警官はその場を逃亡します。

翌日の2月28日、民衆は犯人の警官の処罰を求めて、台北の街をデモ行進をします。民衆の怒りは治まらず、倉庫の米やタバコを燃やし、デモがエスカレートしてきます。外省人(国民党政府と一緒に中国大陸から移住してきた中国人)に対して暴行をする者も出てきました。この動きを鎮圧させるために、国民党政府は、民衆に向けて無差別に発砲します。民衆の一部は、台北近くの台湾放送局に駆けつけ、この事件を台湾全土へ向けてラジオ放送するように迫ります。ラジオ局は民衆の訴えを最初は無視するものの、民衆の怒りを抑えきれずに、事件を台湾全土へ放送し、民衆の蜂起が台湾全土に広がります。ちなみに、この台湾放送局があった建物は、僕が訪れた台北二二八紀念館です。

民衆のデモの様子

陳儀は、2月28日午後3時に戒厳令を発布し、武力によってデモ隊の鎮圧していきます。(ここで発布された戒厳令は、一時的な解除を除けば、1987年まで継続されます。)それに対し、台湾の議会は①戒厳令の解除、②調査員会の設立、③専売取り締まり時の銃の不保持、を要求します。この事態を収拾するために、陳儀はこの民意を受け入れ、民主的な調査委員会によって事件を対処することを合意します。戒厳令も秩序が回復したら解除すると約束しました。

このような陳儀の合意があったにも関わらずに、二二八事件以降もタバコの取り締まりに銃が使用され、逮捕や殺害がなくなりませんでした。このような国民党による二二八事件の処理に対する不満が民衆の政治改革を求める動きに繋がっていきます。

二二八事件以降のタバコ取り締まりの様子

台湾議会は、3月1日に「闇タバコ取締り射殺事件調査委員会」の設置によって、戒厳令の解除、逮捕された市民の釈放、軍や警察による銃の不使用を要求しました。また、この調査委員会は各界の代表者からなる民主的な組織にするように求めます。陳儀はこの要求に受け入れ、「二二八事件処理委員会」と改名され、①事件に関わった市民の責任は問わないこと、②逮捕者は家族が引き取ることを条件に釈放させること、③死傷者への補償金の支払い、④調査委員会は各界の代表者が加入できることを合意しました。

陳儀の合意がラジオで放送され、台湾全土に調査委員会が設置されていきます。3月7日に処理委員会は、全体大会を開き、「32条の処理大綱」を採択しました。この大綱は高度な自治が記されており、1週間でこの大綱を書き上げることができたのは、第二次世界大戦前から続く、台湾における自治運動があったからだとされています。処理委員会は、陳儀にこの32条に10条を加えた大綱を要求していきます。この後、民主的に選ばれた代表者によって事件が法的に対処されていくように思われました。民衆もメディアを通してこの事件が順調に解決されていくと安心していました。

しかし、この民衆の期待は、またもや裏切られてしまいます。陳儀は、処理委員会の42条の要求を拒否しました。そして、国民党の情報機関を通して、二二八事件は国家の転覆に繋がるとして、中国大陸の蒋介石に軍の派遣を要請しました。そして派遣された軍は、武力で粛清していきます。粛清の対象は、民主的に選ばれた処理委員会のメンバーも含まれます。彼らは、謀反の罪として逮捕され、殺害されました。5月15日に国民党軍による台湾全土の粛清が完了します。

この国民党の軍によって殺害された数は、1万8000人~2万8000人にのぼると言われています。人数が定かではないのは、国民党政府時代には長らく二二八事件はタブーにされていたために事件の真相が解明されなかったからです。また、当時の記録は、政府によって改変を強制されたと言われています。

ここまで二二八事件の概要を書いてきました。少し詳しく書いていきましたが、僕たちが現在このように二二八事件を知ることができるのは、二二八事件の真相を解明しようとする懸命な動きがあったからです。もし歴史に埋もれていたら、後世に生きる僕たちは知ることはありません。

では、二二八事件の後の動きはどのようなものだったのでしょうか。1987年に戒厳令が解除されるまでは、中国国民党一党独裁体制で、台湾に政党を結党する自由がありませんでした。けれども、戒厳令下の1986年に民進党が結党されます。民進党は、1989年に政党結成が解禁となって合法化されるまでは、非合法の政党でした。

1987年に戒厳令が解除される前後、二二八事件を歴史的な事実として残していく機運が民間と学術界で高まっていきました。その背景にあったのは、長らく事件の悲しみを沈黙することを余儀なくされた抑圧であったと言われます。戒厳令が解除されるとともに、遺族たちに対する抑圧も徐々に解除され、事件に関する研究報告が積極的に行われていきます。

1995年2月28日、中華民国総統の李登輝が国家による記念碑を竣工し、政府を代表して二二八事件の被害者に対して謝罪を行います。4月7日には「二二八事件処理及び補償条例」が立法院を通過します。条例の第四条第二項により2月28日が「和平紀念日」に指定されます。

1996年2月28日、陳水扁台北市長が二二八事件の犠牲者を追悼する二二八和平紀念碑を建立し、その公園を「二二八和平紀念公園」と改名しました。

1997年2月28日、二二八事件の舞台となった台湾放送局の建物が「台北二二八和平紀念館」としてオープンします。

二二八事件で殺害された張七郎の墓に遺族と馬英九総統(国民党)が一緒に訪れ、遺族らが「二二八事件の記録を国家の力によって保存し、台湾の歴史として語ることができれば、それは台湾の未来にとって良いことです。私たちは国民党を拒みません。」と、国家の管理による二二八事件の記念館の設立を求めました。

2006年2月28日、二二八事件59周年の式典で馬英九が国家レベルで二二八事件に関する研究センターの設立と事件の真相を継続的に調査することを宣言します。

2007年3月21日、「二二八事件処理及補償条例」の中の「補償」が「賠償」に改められた「二二八事件処理及賠償条例」が立法院を通過しました。

2011年2月28日、二二八事件で亡くなった方々への名誉回復を目的として、二二八国家記念館がオープンしました。

僕が訪れた台北二二八紀念館では、この二二八国家記念館がオープンする際の馬英九総統のスピーチ映像が流れていました。その内容は次のようにとても印象的でした。

二二八国家記念館のオープン。重要な意義があります。これは台湾の自由民主の進歩と成長だけでなく、中華民国政府が反省能力を持つ政府であることを示すものでもあります。この紀念館の開館にあたり、やるべきことが二つあります。一つは真相の調査を継続すること、二つめは歴史の教育を行い、子孫代々に二二八事件の真相を理解させることで、今後、同じような事件を二度と繰り返さないことです。

「台北二二八紀念館」や「二二八国家記念館」などその他の二二八に関連した施設が作られるまでには、民間側での献身的な動きだけでなく、民間と国家の歩み寄りがあったことと思います。もちろん政府にとって都合の悪い事実や歴史は隠したいかもしれませんが、事実の隠蔽が本当に国民の未来のためになるとは考えなかったのが、台湾政府のようです。もちろん民衆の強い要求も後押ししたでしょう。馬英九総裁の「反省能力を持つ政府」は、その意味でとても重みのある言葉だと感じました。反省は過去の失敗を未来の力に変えることができます。

二二八和平公園にある二二八和平紀念碑

「歴史を明らかにし、後世に伝える」。言葉で書けば簡単ですが、それを実際に行うには、とても長い時間がかかったり、歴史認識の対立があったりと、様々な辛抱や葛藤が要求されると思います。歴史に向き合うとは、決して綺麗事ばかりではないと思います。けれども、どこかでケジメをつけなければ、その曖昧さの弊害は後世の人々が背負うことになってしまいます。国家的な反省を自らの手で成し遂げた台湾国民と台湾政府を、尊敬します。台湾の人々が今後も健全に自分たちの歴史を刻み続けて欲しいなぁと思いました。

戦後の動乱から起こった二二八事件の悲劇からも、二二八事件を国家的な歴史に位置付けた台湾人の姿勢からも、学べることは大変多い気がします。

つづく。