僕が憲法草案を書くとき、いろんな国の憲法を参考にした。日本語で読める憲法は、できるだけ目を通すように心がけた。憲法と一口に言ってみても憲法が何を意味するかのニュアンスは国によって変わってくる。

例えば、インドネシア憲法。インドネシア憲法の前文は、こんな風な一文で始まる。

独立は、あらゆる民族の本質的権利であり、植民地主義は、人道と正義にもとるものであるが故に、この世から一掃しなければならない。

インドネシアの人々にとっては、憲法とは暗くて辛い植民地支配から解放されたことを意味する独立宣言である。この一文をじっくりと読んでいると、インドネシアの人々が持つ固い決意がひしひしと沁みてくる。

もう少しインドネシア憲法の前文を見てみよう。この植民地主義との決別の次に、こんな前文が続く。

しかし、インドネシアの独立闘争運動は、インドネシア国民を、自由、統一、主権、正義、及び繁栄のインドネシア国の独立へとつつがなく導くことによって、いまや歓喜に満ちた時点に到達した。

全知全能の神の恵沢と、独立した自由な国民生活を享有せんとする崇高な熱望とにより、インドネシア国民は、ここに、その独立を宣言する。

インドネシア憲法の前文にある最初の3つの文は、感動的だ。まるで当時のインドネシアの混乱と歓喜に間に生きた人々の呼吸が伝わってくるかのようだ。このインドネシア憲法の前文が、現在のインドネシア国民に対して、どのような影響を与えているのかは、とても気になるところである。

ところで、今日取り上げたいのは、ドイツのボン基本法である。ドイツには厳密な意味での憲法は存在しない。ドイツは日本と同様に第二次世界大戦で敗北した、ドイツは敗戦後に西ドイツと東ドイツに分割されて、それぞれが占領統治されていく。

このときのドイツの人々は、とても賢明かつ懸命であった。占領下で国の基本を定める憲法を変更させられるのは、主権を持つ国家として到底認められるものではないと意気込んだ。なので、東西ドイツが統一されたときに、改めて憲法を制定しようと決めたのである。そして西ドイツは、1949年に暫定的な憲法として「憲法」という名前がつかないボン基本法を定めた。

ドイツのボン基本法には、このような歴史的な背景がある。1990年に東西ドイツが統一されることになるが、新しい憲法は制定されておらずに、ボン基本法が統一後のドイツにもそのまま使用されている。

ドイツの憲法を読んでいて、自分の心が惹きつけられたのは、この条文である。

第4条〔宗教および良心の自由〕
3. 何人もその良心に反して、武器をもってする戦争の役務を強制されない。詳細は、連邦法律で定める。

これは「良心的兵役拒否」と呼ばれる条文である。自分の良心的な考えを理由に法律で定められた兵役を拒否することができる。ドイツでは2011年に徴兵制が廃止になったが、廃止以前は兵役を拒否したものに対して、兵役の代替として社会福祉活動の労役が求められていた。

共同体を他国の軍事的な脅威から防衛することは、その共同体に所属する人々に対しては当然の義務である。いわば兵役とは、自分が属する共同体で安定した暮らしができることに対する対価であったと言える。

それだけに、徴兵制を持つ国の中で徴兵制を拒否する者は、国賊・売国奴・臆病者と罵られ差別の目を向けられていた。今でも韓国では、兵役を拒否した者に対する風当たりは、相当に強いようだ。ネットで調べてみると「韓国では兵役拒否は、犯罪行為である」という声もあった。

良心的兵役拒否は、もともとは特定の宗教の信仰や教理上の理由で、戦争や兵役の義務を果たすことができない人たちのために設けられた条文である。つまり、少数派を保護するための権利として兵役拒否が制度的に作れた。それが時代の変化とともに、その権利の範囲が拡大されていく。そして、ドイツのボン基本法では、特定の宗教に限られたものではなく、すべての市民に認められる権利になったのである。

現在の日本は、徴兵制ではなく志願制である。だから、僕は兵役の過酷さを身をもって知らない。僕がこうして静かな自宅でキーボードを打って文章を書けるのも、社会が安定しているおかげである。こんなノホホンとした日常の見えないところでは、危険を顧みずに身体を張って、社会の安定性をキープさせるために働いている人たちがいる。

もし日本が徴兵制になったとして、自分が兵役することになったとしたら、どんなことを考えるのだろうか。自分のやりたい仕事ができなくなるとか、家族や友達と長らく会えなくなってしまうとか、兵役が終わった後は無事に社会復帰できるのかとか、いろんな不安や心配が頭をよぎると思う。

さらに自分が兵役のときに戦争が起これば、兵隊として参戦することになる。戦争とは、合法的に人を殺すことである。そのときに戦争に参加することに、自分はとても悩み、葛藤するはずだ。

戦地へ派遣される前と戦地から帰還後の兵士の顔写真を見たことがある。戦地へ行く前の肌の艶が良く、少しふっくらと肥えた幸せそうな顔は、戦地から帰ってくると、顔の全体が窪み、痩せ焦げて黒ずんでしまい、目から人間としての生きる力を感じられない無気力な顔付きに変わっていた。まるで魂を無くした空っぽの容れ物のような感じであった。兵士の顔からも戦争の悲惨さが見て取れる。

僕が兵役を任命されたとしたら、僕は時間の限りまで悩むだろうと思う。そのときの日本は、僕の大切な人生の一部を捧げるほどの国家に値するのだろうか。

ドイツは2011年に徴兵制が廃止されるまでに憲法のなかで「良心的兵役拒否」が保障されていた。良心的な理由で兵役を拒否することは、特別なことではなく、人が人である当然の道理として社会的に認められていた。確かに共同体の軍事的な防衛は、共同体の構成員であるならば当然の義務である。しかし同時に、その当然の義務を個人の心の理由で拒否する権利も認めている。

良心とは、目に見えないものである。あなたの良心を示せと言われても、そう簡単には見せることはできない。けれども、不確かで解りにくい良心というものを根拠に、具体的な義務を拒否できるのである。ここに個人の精神性を尊重する社会のムードを感じる。それは、個人の心の問題を理由に、社会の義務を拒否することを受け入れてくれる社会であるのだ。

理屈でいってしまえば、兵役を命じられた全ての人が良心的な理由で兵役を拒否をすれば、軍隊を組織することが難しくなってしまう。ドイツでそのような事態に陥らなかったのは、最終的にどこかでバランスが取れていたのだろう。

北欧の国のスウェーデンでは、ロシアの軍事的な脅威に対抗するために、2018年に徴兵制を復活させ、女性も徴兵制の対象にすることを決定した。スウェーデンの徴兵制の復活の背景には、兵隊の志願者が減っていったことがあるそうだ。スウェーデンでは制度的に良心的兵役拒否が認められている。

もちろん共同体の義務を果たすことは、それ義務であるとはいえ、意義があるものである。一方で、兵役を拒否した人を、その個人の選択を尊重するがために、制度的に受け入れる余白を作っている。様々な価値観を共存させるための制度設計にかける工夫があるように思った。こんな風にあれこれ考えていると、良心的な兵役拒否を認めている社会が、とても良心的じゃないかと感じた次第である。

つづく。