2018年1月24日から1月31日まで、中国の香港と広州を訪れていました。この中国旅行記では、そんな旅を通して、肌で感じたことや考えたことシリーズに分けて書いています。

“Hong Kong and the University of Hong Kong were the birth place of my knowledge.”

(香港と香港大学は、私の知性が誕生した場所である。)

孫文ー1923年2月20日香港大学

この言葉は、孫文が1923年2月20日に香港大学の陸佑堂(Loke Yew Hall)で行った演説の一部です。孫文は、1883年17歳の時に香港にやってきます。1887年から現在の香港大学の前進となる香港西医書院で医学を学び、1892年は医者の資格を取得しています。革命家としての孫文の思想は香港で育まれました。孫文と香港は、切り離せない存在です。

なぜ孫文が香港にやってきたかというと自分が知るところの話では、なかなか過激的なエピソードがあります。小さい頃の孫文は「ハワイ」というあだ名で呼ばれていたそうです。というのも彼は、孫文は幼少期をハワイのホノルルで過ごしており、ホノルルの学校を出ています。孫文はハワイで、西洋の思想や学問を触れ、さらにはキリスト教とも出会っています。孫文がキリスト教へ傾倒することを快く思わなかった孫文の母や兄は、孫文を中国の故郷である広東省香山県(現在は中山市)へ送り返します。

自分の生まれた故郷へ帰ってきた孫文は、キリスト教の影響もあってか、地元の人々が崇拝していた偶像を破壊してしまいます。孫文の身を案じた周りの人が孫文を香港へ逃します。このエピソードからも分かるように孫文は相当の異端児でした。そんな変わり者を受け入れてくれたのが、香港という場所だったのでしょう。

1923年2月20日に孫文が香港大学で行った演説の要約はこちらで観ることができます。

【英語】Sun Yat-sen’s Address at The University of Hong Kong

【中文】孫中山於港大公開演說 (1923年)

演説の中からもう一度内容を引っ張ってくると、演説を聞いたある人が孫文にこう尋ねます。

「革命思想と現代的な考えはどこで得たのですか?」

すると、孫文はこう答えます。

「私の考えは、まさにここで学んだのですよ。そう、植民地の香港でね。(会場:笑いと拍手)」

「植民地の香港」とは、孫文の皮肉のセンスだと思いますが、当時の香港はイギリスの植民地でありました。しかし、同時に最先端の学問や情報にアクセスできる場所でもありました。また、清国に対して自由に言論ができる場所でもあったのでしょう。孫文は、さきほどの続きをこんな風に語っています。

「私がこのような考え(革命思想と現代的な考え)をどうやって得られたかというと、30年以上も前、私は香港で学び、香港の街でたくさんの時間を過ごしてきました。香港はとても印象的でした。なぜなら、香港には秩序と安定があり、人々は干渉されることなく、芸術的な表現をしていたのです。」

孫文が学んだ香港は1890年頃なので、私が訪れた香港は100年以上の後のことです。なので、どこまで一致するか分かりませんが、街を歩いてみると「自由の香り」は漂ってきます。そして、街を歩いてみて驚くのが、いろんな人種の人々(今の時代は、国籍や民族や人種が一致しているわけではないので、この表現は適切ではないかもしれません。)が街を闊歩しています。黄色人や白人や黒人など、いろんな背景を持っている人が暮らしていました。孫文が過ごした香港は、貿易港として栄えてたので、同じくいろんなタイプの人間が多彩に街を賑わせていたのだと思います。

香港の街を歩いでやたらに目に飛び込むのが、壁画です。どのストリートを歩いても、名もなき芸術家の色彩溢れる作品が異様な存在感を放っています。あるストリートの香港壁画を前にたくさんの人が集まり、写真を撮っていたので、香港の名所になっているようでした。私は、香港壁画を通して、人々の自由な精神の発揮を垣間見ることができましたが、きっとこの「自由」は、別の文脈でも大いに発揮されているのだろうと推察します。自由な精神を持つ人々が集まって、香港の独特な雰囲気を作り出しているのだと思いました。このような自由な精神が、革命思想を育んだのでしょう。

香港には、「Dr Sun Yat-sen Historical Trail(孫中山史蹟徑)」という孫文の香港の歴史的なゆかりの場所を辿れる情報がまとまっています。この「Dr Sun Yat-sen Historical Trail(孫中山史蹟徑)」は、孫文の生誕130周年を記念してまとめられたものだそうです。

「Dr Sun Yat-sen Historical Trail(孫中山史蹟徑)」は、このサイトで見れます。

Dr Sun Yat-sen Historical Trail

香港の孫中山記念館のウェブサイトでも関連した地図やパンフレットをダウンロードすることができます。

Dr Sun Yat-sen Museum

このような情報を丁寧にまとめてくれる方々がいたからこそ、後に続く私たちが学べるのです。私も含めた新しい世代の人間は、歴史に学び、未来を作り出していかねばなりません。情報をまとめてくれた方々に感謝しながら、孫文の歴史を歩いていきたいと思います。

(1) 香港大学 / The University of Hong Kong

香港大学は、香港で最も長い歴史を持つ高等教育機関で、1911年に香港医科大学(1887年に設立された香港西医書院が前進)を合併し、創設されます。孫文は、香港西医書院で1887年から1892年まで学び、1923年2月20日に卒業生として大学を訪れ、「香港と香港大学は、私の知性が誕生した場所である。」という言葉を残しています。孫文の歴史的な事業を保存するために、孫文の銅像が大学の中心部に建立され、1983年に香港政府によって孫文が演説を行ったメインホールが歴史的記念物として認定されています。

『孫中山史蹟徑』等を参考に筆者が意訳

こちらが香港大学です。中に入ってみると、孫文の像がありました。像の近くには、「Hong Kong and the University of Hong Kong were the birth place of my knowledge.」と文字が刻まれた記念碑もありました。孫文が1923年に演説をした陸佑堂(Loke Yew Hall)の中も入れます。とても美しい建築物でした。


香港大学のロゴには「明徳格物」と書かれていますが、『大学』という書物の「大学之道、在明明徳、在親民、在止於至善」と「格物致知誠意正心、修身斉家治国平天下」からのものでしょう。「徳を明らかにして、物事の道理を極めましょう」という意味ですが、大学の志として、とても素敵だと思います。

(2) 抜萃書室 / The Diocesan Home and Orphanage


拔萃書室は、イングランド国教の教会で、孫文が香港で学んだ最初の学校です。拔萃書室には、様々な国籍を持つ子供たちが下宿しながら近代的な西洋の学問を学んでいました。卒業生の多くは香港や中国大陸で活躍をしたそうです。

『孫中山史蹟徑』等を参考に筆者が意訳

(3) 同盟会招待所 / The Reception Centre of Tong Ming Hui


同盟会は、孫文が1905年に東京で設立し、その後に香港支部が設立されます。同盟会の香港支部は、1907年から1908年にかけて、黄岡起義や恵州起義の支援することになります。この場所では、革命の亡命者が保護されました。

『孫中山史蹟徑』等を参考に筆者が意訳

(4) 米国公理会福音堂 / The Preaching Hall of American Congregational Mission


米国公理会福音堂は、3階建ての建物で、孫文は1883年にこの教会で洗礼を受けています。孫文は、「日新(Rixin)」という洗礼名を受けていますが、のちに中国風の「逸仙(Yat-sen)」に変えています。孫文は、この建物の2階に住んでおり、1884年から1886年にかけて中央書院で勉強をしています。

『孫中山史蹟徑』等を参考に筆者が意訳

(5) 中央書院 / The Government Central School


中央書院は、1862年に香港で最初の西洋的な教育を施す中等教育学校として設立されます。孫文は、1884年から1886年まで、この学校で学びました。

『孫中山史蹟徑』等を参考に筆者が意訳

(6) 「四大寇」集会所 楊耀記 / The Meeting Place for ‘The Four Desperados’


四大寇とは、孫文を含めて、孫文の親しかった友人の陳少白、楊鶴齢、尤列のことです。この「楊耀記」は、楊鶴齢の父が開いたお店で、4人はよくこの店に集まり、清朝打倒の革命について活発な議論を交わしました。英語の「Desperados」とは、「無法者」「命知らず」「ならず者」の意味です。

『孫中山史蹟徑』等を参考に筆者が意訳

(7) 楊鶴齢が暗殺された場所 / Site where Yang Quyun was murdered

楊鶴齢は、香港最初の革命組織である輔仁文社の創設者で、後に孫文が作った興中会と合流し、興中会の会長に就任します。楊鶴齢は1900年に恵州起義に参加するも、失敗に終わり、香港で英文を教える学校を設立しました。彼は、1901年1月10日に広州の官吏によって、彼の学校内で暗殺されます。彼は、香港に埋葬されますが、墓碑の破壊を避けるために楊鶴齢の名前を記されず、「6348号」と記されています。

『孫中山史蹟徑』等を参考に筆者が意訳

(8) 輔仁文社 / Furen Literary Society



輔仁文社は、民衆の啓発を目的に楊衢雲と謝纉泰によって1892年に設立されます。孫文は、輔仁文社のメンバーと連絡を取り、孫文が香港で興中会を設立した際には、楊衢雲と謝纉泰は興中会の中心的人物となり、楊衢雲は興中会の会長になりました。

『孫中山史蹟徑』等を参考に筆者が意訳

(9) 皇仁書院 / Queen’s College


皇仁書院は、1862年から1889年まで中央書院と呼ばれ、1889年に現在の場所に移転し、維多利亜書院と改名し、1984年に皇仁書院と呼ばれるようになります。孫文もこの学校に在籍していました。

『孫中山史蹟徑』等を参考に筆者が意訳

(10) 雅麗氏利済医院付属香港西医書院 / Alice Memorial Hospital and the Hong Kong College of Medicine for Chinese


孫文は、1887年から香港西医書院で医学を学び始め、1892年に優秀な成績を修めて卒業しています。この香港西医書院は、1911年に香港大学として吸収合併されました。

『孫中山史蹟徑』等を参考に筆者が意訳

(11) 道済会堂 / To Tsai Church


道済会堂は、1888年に香港西医書院の隣に造られ、孫文が香港西医書院の学生だった頃、この教会に訪れています。

『孫中山史蹟徑』等を参考に筆者が意訳

(12) 香港興中会 / The Hong Kong headquarters of Xing Zhong Hui


興中会は、1894年に孫文がハワイで設立した最初の革命組織です。翌年に「乾亨行」という表看板で興中会の香港支部が立ち上げられます。

『孫中山史蹟徑』等を参考に筆者が意訳

(13) 杏讌楼西菜館 / The Xing Yan Lou Western Restaurant


杏讌楼は、西洋レストランで、孫文や革命同志がよく集まっていました。

『孫中山史蹟徑』等を参考に筆者が意訳

(14) 中国日報 / The China Daily Office


中国日報は、1900年に孫文の友人であった陳少白が清王朝に対する宣伝を広げるために設立しました。中国日報は、清末に反清革命を掲げた初めての新聞社で、新聞を発行するだけではなく、興中会やその他の革命組織のメンバーと連絡を取っていました。1900年の恵州起義は、このオフィスの3階で計画されました。中国日報は、1911年まで革命思想の代表的な言論機関として継続します。

『孫中山史蹟徑』等を参考に筆者が意訳

(15) 和記桟鮮果店 / The He Ji Zhan Fruit Stall


和記桟鮮果店は、革命メンバーの活動拠点で、興中会の謝纉泰らが起こした1903年の「大明順天国」広州蜂起もここで計画されました。

『孫中山史蹟徑』等を参考に筆者が意訳

(番外編) 梅屋庄吉の写真館 – 中環皇后大道街8号

長崎出身の梅屋庄吉は、香港で「梅屋照相館」を開業します。梅屋庄吉は香港で孫文と出会い、それ以後、孫文の革命を支援しました。日中関係の悪化に伴い、関係改善を求めるものの、倒れてしまいます。孫文の死後は、広州、黄埔、南京、マカオに孫文の銅像を寄贈します。梅屋庄吉が送った孫文の銅像は、文化大革命の際に破壊されそうになりますが、周恩来の尽力によって保護され、現在に至ります。

以上になります。

今回は、「Dr Sun Yat-sen Historical Trail(孫中山史蹟徑)」をもとに孫文や辛亥革命にゆかりのある場所を巡りました。地図を片手に15箇所を回ることができましたが、写真を見てもわかる通り、跡地は歴史の見る影もなく標識がなければ気づくことができない廃墟もありました。

自分が回った15箇所以外にも孫文や辛亥革命のゆかりのある場所は、香港にたくさんあるでしょう。例えば、最後に紹介した孫文と苦楽を共に革命を志した梅屋庄吉の写真館です。その跡地には、残念ながら、それらしい標識はありませんでした。今度、香港に行った時に「梅屋庄吉の写真館の跡地をDr. Sun Yat-sen Historical Trail(孫中山史蹟徑)に追加しませんか?」と香港の孫中山記念館に問い合わせてみようと思います。

香港では辛亥革命や孫文に支援した様々な人物や場所を知ることができました。孫文は辛亥革命という大事業の象徴的な人物ではありましたが、孫文の一人の力で成し遂げた訳ではありません。そこには歴史の日に当たることのない名もなき多くの人々の思いがあったのだろうと思います。その中には日本人も含まれていました。

孫文と香港という関係を今まで見ていきましたが、革命的な思想や精神を生む土壌の条件を考えてみると、香港という地域は次のような特徴がありました。

①自由な言論・表現が確保されていること
②最先端の学問や情報にアクセスできること
③ヒト・モノ・カネ・情報が活発に往来していること

そして、この3つの特徴は孫文自身が兼ね備えている性質でもあったと思います。けれども、この3つの特徴だけでは足りなかったでしょう。孫文率いる興中会や同盟会は、1895年から1911年にかけて、合計10回もの武装蜂起を実行していますが、いずれも失敗に終わっています。10回の武装蜂起のうち6回が香港で計画されたもののようです。そこには、何度も失敗しても諦めきれない「何か」があったはずです。

その「何か」を追いかけて旅は続きます。

つづく。