2018年1月24日から1月31日まで、中国の香港と広州を訪れていました。この中国旅行記では、そんな旅を通して、肌で感じたことや考えたことシリーズに分けて書いています。

今回の中国旅行の目的は、辛亥革命の精神を学ぶことである。現代を生きる私たちは約100年前に中国で大きな地殻変動があったことを知らないし、そこに多くの日本人が協力したことを知らない。

中国を歩きながら、宿でゴロゴロしながら、そして行く先々で立ち止まっては、一つの問いばかり考えていた。

「なぜ多くの日本人が中国革命に駆り立てられたのか。」

この問いは、すなわち中国革命は何を目指す革命であったのかに言い換えられるだろう。それでは、孫文たちが目指した中国革命は、どのようなものであったのか。ここで孫文の言葉を拾い上げてみよう。

引用先は、『孫文革命文集』である。この本は、旅のお供としてポケットに入れ、旅先で何度も読み返した。

『中国は必ず革命により共和主義を達成できるー宮崎寅蔵との会話』からの言葉である。宮崎寅蔵(宮崎滔天)は、孫文を支援した日本人である。宮崎滔天が「中国革命の主旨を教えてほしい」と尋ねると、孫文は次のように答える。

「余は人民みずから己を治むるを以って、政治の極則なるを信ずる。故に政治の精神においては、共和主義を執る。しかり、余やこの一事を以ってして、ただちに革命の責任を有するものなり。」

孫文は「自分を治める」ことが政治の原則であると考えている。これは福沢諭吉の「自主独立」に考え方に近い。革命の原点には、このような自立的な人間観があったのだろう。それゆえに政府が行うべき施策とは、民衆の自立を促すことである。けれども、孫文の目には、当時の清朝政府は人民を愚民することを治世の第一にしているように見えた。

孫文は「共和なるものは我が国治世の神髄にして、先哲の偉業なり。」と述べており、共和主義は、中国の伝統であると考えていることも興味深い。孫文は、中国古代の「三代の治(伝説上の堯・舜・禹の3人の聖王による統治)」に共和主義のエッセンスを見出している。孫文の革命は、見方を変えれば伝統回帰であり、中国の伝統の延長線上に自らの改革を位置付けようとした。

孫文と宮崎滔天の談話では、孫文の革命にかける情熱が高まり、最後はこのような言葉で終わっている。

「余は固く信ず、支那蒼生のため、亜州黄種のため、また世界人道のため、必らず天のわが党を祐助するあらんことを。(略)諸君もまた力を出して、わが党の志望を助けよ。支那四億万の蒼生を救い、亜東黄種の屈辱をすすぎ、宇内の人道を回復し擁護するの道、ただ我が国の革命を成就するにあり。この一事にして成就せんか、而余の問題は刃を迎えて解けんのみ。」

この言葉からも分かる通り、孫文が中国革命に込めた願いは、決して中国人民のためだけではなかった。この時の情勢では、アジア諸国は西洋列強の植民地にされており、人々は屈辱的な経験を味あわされていた。孫文は、中国で革命によって中国の民衆を救い、アジアの解放によって、アジアの雪辱を晴らそうとした。これこそが世界の人道にかなうと考えていたのである。

宮崎滔天は、孫文の話を聞いて何を思ったのだろうか。日本と中国は古くから付き合いのある隣国同士である。日本は古くから中国の文明を取り入れて豊かになった。そして、中国は日本の近代化から新しい文明を吸収していった。宮崎滔天は「同胞が困っている」という義侠心とアジアが連帯する未来を孫文の言葉から強く感じたのではないだろうか。

そんなことを考えながら、中国革命で命を落とした山田良政の最期の地へ向かう。

つづく。