2018年1月24日から1月31日まで、中国の香港と広州を訪れていました。この中国旅行記では、そんな旅を通して、肌で感じたことや考えたことシリーズに分けて書いています。

《中和の歌》
中国革命、何目指す。
それは、第二の御一新。
亜細亜連帯の革命歌。
西郷隆盛、道義を訴える。
孫文、王道文化を訴える。
中和は、亜細亜の天命か。
中する国とは、中国か。
和する国とは、日本か。
嗚呼、中和の人民よ。
この混迷を駆け抜けよ。

中国の辛亥革命は、清朝打倒だけが目的ではなかった。孫文は、日本に感化され「第二の明治維新」を行おうとした。中国革命を成し遂げ、中国を強国にし、日本と連携してアジアの解放を目指したのである。辛亥革命は、孫文の「アジア主義」の事始めである。孫文は、アジアで抑圧され、苦しむ人々の強く優しい味方であろうとした。それは、世界的な視座のある革命であった。

中国革命は1895年から1911年にかけて合計10回にも及ぶ武装蜂起が行われた。これらの武装蜂起は失敗に終わるが、革命思想を広めることに繋がったと言われる。そして、その中国革命の中で生命を落とした日本の志士がいる。その名は山田良政。

山田良政は、津軽藩出身で、語学に長けており、日清戦争には通訳として従軍していた。孫文は、第2回目の武装蜂起を恵州三洲田(現在の深圳三洲田)で計画しており、台湾総督府の児玉源太郎から武装蜂起の支援を約束していた。しかし、内閣の方針によって、台湾総督府の態度が変わり、支援が断ち切られることになった。

支援が難しくなれば、武装蜂起に必要な物資を革命軍に届けることはできず、解散しなければならない。このことを伝えるために、山田良政は恵州へ向かった。恵州の革命軍は解散することができたが、土地に不慣れな山田良政は、運悪く清朝軍に捕まってしまった。

聞くところによると、清朝軍は山田良政に「お前は本当に中国人か?」と何度も聞いたそうだ。山田良政は、北京語は話せるものの、南部の現地語は話すことができないので、怪しまれた。当時の法律では、清朝軍は外国人を殺害できなかったので、山田良政が日本人であることを明かせば、命は助かったはずである。けれども、山田良政は最後まで「自分は中国人だ。」と言い続けた。そして最後に清朝軍に葬られてしまった。

山田良政は、中国共和革命のために最初に殉難した外国人とされている。孫文は革命を成し遂げた後、山田良政を讃える碑を東京の全生庵に建立している。その碑には、孫文の次の言葉が刻まれている。

山田良政君は弘前の人なり
庚子革命(1900年)又た八月革命軍恵州に起るや
君は挺身して義に赴き、遂に戦死す
ああ其れ人道の犠牲、興亜の先覚なり
身は殞滅すると雖も志は不朽なり

民国2年2月27日 孫文

僕は、中国へ行く前に東京の「山田良政君碑」を訪れたこともあって、山田良政が斃れた場所が気になっていた。幸運にも知人で山田良政の最期の地に訪問した人がいた。山田良政は、ライチの巨木の根元に葬られたらしい。さらに、その知人は、現地の人と調整をしてくれて、行き方を丁寧に教えてくれた。僕が辛亥革命を学ぶことができるのは、協力してくれる人がおかげである。感謝の気持ちを抱きながら、深圳から目的地へ向かった。ライチの木までの行き方は、調べてもなかなか出てこないので、ここに記しておこうと思う。

ライチの木は「皇思揚村委会(皇思扬村委会)」と「多祝鎮(多祝镇)」の間にある。この二つは、両方ともバスが停まるので、どちらで降りても構わないが、多祝鎮(多祝镇)はバスのターミナルなので多祝鎮(多祝镇)で降りた方が迷わないだろう。

少しズレているかもしれないが、ライチの木のあった場所を赤丸印で囲っている。

羅湖(罗湖)から多祝鎮(多祝镇)まではバスで2回乗り換えれば3,4時間程度行ける。

羅湖(罗湖)→惠东(惠东城南客运站):バスで約2時間
平山(惠东城南客运站)→多祝(多祝鎮・多祝镇):バスで約1時間

まずは羅湖のバスステーションで「惠东(恵東)」行きのチケットを購入する。間違って「惠州」行きのチケットを購入しないように注意しよう。


惠东行きのバスはA入り口なので、看板に従って降りて行く。中国の都市は進化が激しいので、チケット売り場やバス乗り場は変わる可能性は高い。


バスに揺られて2時間くらいすると、惠东城南客运站に到着する。バスターミナルから外に出るとバイクタクシーを勧誘する物凄いクラションの嵐に遭遇する。


多祝行きのバスは、惠东城南客运站から頑張ると乗れる。多祝行きのバスは、惠东城南客运站が車庫になっていて、そこから出発する。惠东城南客运站にバス停はないので、車庫から出発したところを強引にバスに乗り込む形になる。


写真にあるような出口から多祝行きのバスが出て来たら、すぐさまバスへ駆け寄り、窓を叩く。そしてバスに乗せてもらう。正規のルートでは、惠东城南客运站から少し離れた「平山」というバス停から乗るのが普通のようだが、「こっちのほうが安心だから」という理由でこの乗り方を教えてもらった。

バスに乗り、多祝へ向かう。僕は、皇思楊村委会という役場で現地の方にライチの木を案内してもらうために、多祝から少し手前の皇思揚村委会で下車した。皇思揚村委会という村役場の方と合流し、ライチ木と恵州起義で戦闘のあった場所を案内してもらう。


皇思楊村は、革命軍と清朝軍が争った場所である。この城壁には、恵州起義で飛び交った弾の跡が残っている。


この多祝鎮の西門の近くで革命軍の兵士達は犠牲になった。そして、山田良政が葬られたライチの木へ向かう。

ライチの木に近づいて、しゃがみ込んで手を合わせる。合掌。


今から100年前にここで激しい戦いがあり、自分が今まさに立っているところで一人の人間が横たわっていた。なぜ山田良政は最後まで日本人であることを隠して、中国人だと言い張ったのだろうか。日本人であることを告げれば生命は助かったかもしれない。

山田良政は、日本からここまで向かう道の途中で何を思っていたのだろうか。日本からの支援の中止を革命軍に伝える時に何を思ったのだろうか。そして、最後に見上げた空はどんな色だったのだろうか。思い残したことはあったのだろうか。いろんな問いがフツフツと湧き上がってくる。騒ぎ出す感情を解消することができないまま、ライチの木を後にする。

村役場の方に皇思楊村の郷土史の本をいただいた。この本の122ページに「山田良政」と名前が記されている。村役場の方には最後まで親切にしていただいた。


少し時間があったので、近くにある「革命烈士記念碑」に立ち寄った。帰りは多祝のバス停から惠东城南客运站へ向かった。


陳舜臣の『孫文』という小説には、恵州蜂起の描画がある。自分がいる多祝から南にある三洲田で革命軍と清朝軍の戦闘があった。革命軍が清朝軍に奇襲をかけると、清朝軍は戦わずに逃げていった。革命軍は、捕虜になった30人の清朝軍兵士の首ではなく、彼らの辮髪を切り落とした。このエピソードは、史実ではないかもしれないが、革命が目指す方向性を物語っているだろう。

ライチの木から、次に進んでみることにしよう。

つづく。