2018年1月24日から1月31日まで、中国の香港と広州を訪れていました。この中国旅行記では、そんな旅を通して、肌で感じたことや考えたことシリーズに分けて書いています。

広州は辛亥革命の震源地である。ここから中国全土を突き動かす運動が起こった。

辛亥革命の指導者である孫文(孫中山)は、広州の南にある翠亨村で生まれた。その後、孫文はハワイや香港へ行き、革命思想を育んでいくのである。辛亥革命は、清王朝を打倒するために、10回もの武装蜂起が行われるが、第1回目の武装蜂起は広州で計画された。

辛亥革命の幕開けとも言える武昌起義は、1911年10月10日に起こったが、その半年前の4月27日(旧暦で3月29日)には、広州で黄花崗起義が起こっている。黄花崗起義は失敗に終わるが、黄花崗起義に参加した人々が中国各地へ渡り、革命思想を広げて、武装蜂起を指揮し、最終的には各省が独立宣言をする流れになるそうだ。辛亥革命を語る上で、広州は欠かせない場所である。

中華民国が建国された1912年に孫文は初代臨時大統領に就任する。広州市にある中山記念堂は、辛亥革命以後は革命軍の司令部として、1921~1922年には孫文の総統府があった場所である。また、1917年には同じく広州で孫文は広東軍政府を樹立し、北洋軍閥に対する護法運動を展開している。

広州は辛亥革命の震源地だけでなく、辛亥革命後の中心地でもあったのだ。

広州には、辛亥革命や孫文に関するスポットや史跡が多い。それでは広州を回ってみよう。まずは、中山記念堂である。ここは辛亥革命後の軍の司令部が置かれた場所でもある。中山記念堂はビックリするくらい大きな建物である。中に入ってみる。


孫文の紹介文がこのように書かれている。

中国民主革命先行者孙中山
Dr. Sun Yat-sen, the Forerunner of China’s Democratic Revolution
孫文先生、中国民主革命の先駆者

そのすぐ下に毛沢東から孫文への言葉が書かれている。

To commemorate the great revolutionary forerunner Dr. Sun Yat-sen!
To commemorate his perseverant struggle in clear revolutionary liberal stance against reformists in China during the preparatory period of China’s democratic revolution.
To commemorate his contributions in leading the people to overthrow the monarchy and establishing a republic during the Revolution of 1911.

偉大な革命的先駆者、孫文先生を記念する!
中国の民主革命の前段階において、明確な民主革命の立場から、社会改良主義者に対する断固たる闘いを記念する。
1911年の辛亥革命において、王政を打倒のために民衆を導き、共和制を設立した功績を記念する。(筆者訳)

現代の中国で孫文と毛沢東の位置付けは、ハッキリと分からなかったが、毛沢東も孫文の功績を無視することはできないようだ。そんなことを思っていたら、近くに中国人の観光ガイドが通り過ぎた。その観光ガイドは、日本人客を相手にしているらしく、日本語でこんなことを案内していた。

「中国では、孫文と毛沢東が有名ね。孫文のほうが毛沢東よりも偉いね。孫文は今の中国を作ったからね。」

このガイドの認識が中国ではどこまで一般的ななのかは分からない。ただ広州という土地柄もあるが、広州の人々にとって孫文は特別な存在なのかもしれない。

広州に関する説明があった。広州は、古くから中国の海上貿易の拠点であり、「海のシルクロード」の出発点でもあったそうだ。孫文は、ハワイ、日本、イギリス、アメリカ、マレー半島などを渡っている。孫文や辛亥革命を理解するにも、彼が海のネットワークを駆使する土地柄に生まれたことも重要なポイントであろう。

孫文が使用した帽子とステッキ。

孫文が亡くなった時に孫文の友人たちが東京で開いた葬式。

中山記念堂の裏側の越州公園には、中山記念碑が建っている。この記念碑は孫文の死後、1929年に建立されている。記念碑から中山記念堂をまっすぐに見守るようにデザインされている。

中山記念碑の正面には、孫文の遺言が刻まれている。

余致力國民革命,凡四十年,其目的在求中國之自由平等。積四十年之經驗,深知欲達到此目的,必須喚起民眾及聯合世界上以平等待我之民族,共同奮闘。
現在革命尚未成功,凡我同志,務須依照余所著《建国方略》、《建国大綱》、《三民主義》及《第一次全国代表大会宣言》,繼續努力,以求貫徹。最近主張開國民會議及廢除不平等條約,尤須於最短期間,促其實現。是所至囑。

余の力を中国革命に費やすこと40年余、その目的は、中国の自由と平等と平和を求むるにあった。40年余の革命活動の経験から、余にわかったことは、この革命を成功させるには、何よりもまず民衆を喚起し、また、世界中でわが民族を平等に遇してくれる諸民族と協力し、力を合わせて奮闘せねばならないということである。
しかしながら、なお現在、革命は、未だ成功していない──。わが同志は、余の著した『建国方略』『建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続き努力し、その目的の貫徹に向け、誠心誠意努めていかねばならない。

次は、中山大学である。この大学は、1924年に孫文によって広東高等師範学校、広東公立法政大学、広東公立農業専門学校を合併し国立広東大学として設立された。孫文の死後、彼の功績を讃えて、「中山大学」に名前を変更している。


大学の広大なキャンパスの中心には、孫文の辛亥革命を支援した日本人の梅屋庄吉が送った孫文の銅像がある。梅屋庄吉は孫文の3つの銅像を中国に送っている。中国の文化大革命の時期には、この孫文の銅像も破壊される危機があったが、この銅像は「中国と日本の友好の証」ということで、現地の中国人は、この銅像を必死に守った。その時の中心的な役割を果たしたのが、周恩来である。周恩来は日本への留学経験がある人物である。


また、中山大学には、陳寅恪(ちんいんかく)という学者の家がある。中国では大学の教授は大学内に住むのは一般的らしい。話によると陳寅恪は、独立の精神を説いた偉大な中国の歴史学者であるようだ。今でも中国では、陳寅恪を尊敬する中国人は多いと聞いた。


次は、大元帥府である。孫文は、1917年には、この場所に広東軍政府を樹立し、北洋軍閥に対する護法運動を展開している。ここには、広東政府の執務室や会議室がある。建物の中には、初代中華民国総統の蒋介石や中国共産党の設立者の一人である陳独秀のパネルがあった。執務室や会議室でどのような会話が行われたのかと想像が広がる。





大元帥府には、孫文の小さな像があり、それぞれ彼の人生における段階を表している。

Root: As young Sun Yat-sen was listening the story of Taiping Rebellion, the root of revolution has been buried in his mind.
孫文が若かりし頃、太平天国の乱の話を聞き、革命の根が彼の心に埋め込まれた。

Ambition: When young Sun Yat-sen studied at home and aboard, his idea to reform and rejuvenate China originated.
青年孫文が母国と外国で勉強をしていたとき、中国を改革し、回復させるためのアイディアが生まれていった。

Exploration: From political reform to overthrowing Qing Dynasty with force and arms, Sun Yat-sen explored and pondered how to reform China.
政治改革から武装によって清王朝を打倒し、孫文は中国をどのように再建するかを考えていた。

Monument: The revolution of 1911, founding of the Republic of China, Sun Yat-sen is a monument of Chinese democratic revolution.
1911年の革命により、中華民国が建国され、孫文は中国民主革命の金字塔になった。

Advancement: To defend the democratic republicanism, Sun Yat-sen has set-up government three times in Guangzhou. And he became more and more active though many setbacks were confronted.
民主共和政を守るために、孫文は広州に3度、政府を設立した。彼は多くの困難にも関わらずに、ますます活動的になっていった。

最後に紹介するのは、辛亥革命記念館である。ここは2011年の辛亥革命の100周年を記念して建てられたそうだ。時間が少なくじっくり見ることはできなかったが、ここには多くの貴重な資料が展示されている。


興中会の孫文は宮崎滔天の紹介によって華興会の黄興と面会をしている。1905年には、興中会(孫文・胡漢民・汪兆銘など広東中心)、光復会(陶成章・章炳麟・蔡元培・秋瑾など浙江中心)、華興会(黄興・宋教仁・陳天華など湖南中心)が集合して、中国同盟会が東京で設立される。中国同盟会は、孫文を総理、黄興を庶務に革命運動の指導的役割を担う。辛亥革命において、日本が果たした役割は大きい。


革命運動が盛り上がっているときには、中国各地で活発な言論活動が行われたようだ。社会変革と言論の活動はリンクしている。


これは中華民国臨時約法である。第一条には「中華民國由中華人民組織之(中華民国は中華人民によってこれを組織する。)」と記されている。この憲法を成立させるために、多くの人々が立ち上がったのである。

辛亥革命記念館で最後に見たのは、孫文の遺言。

革命尚未成功、同志仍須努力
革命未だ成らず、同志なお須らく努力すべし

この遺言をどのような意味で受け取れば良いのであろうか。中国旅行記のまとめとして、今回の旅行を通して、自分の思うことを次に書いてみようと思う。

つづく。