歴史は人が作る。しかし、人生とは偶然の連続である。ちょっとした出会いが、いとも簡単に人生を変えてしまう。これは身近に溢れた光景だ。とすれば歴史は偶然の産物か。けれども偶然が起こりやすい状況も実際にあるように感じる。歴史があたかも大きな筋書き通りに進む劇場であるかのような錯覚を起こすのは僕だけであろうか。

先日、僕は福岡県の久留米を訪れていた。権藤成卿に関する話を聞くためである。権藤成卿は、明治元年に生まれた思想家である。僕は権藤成卿が提唱した自治思想は、現代社会に向けてとても鋭い問題提起を投げかけていると思う。けれども、権藤成卿は今回の主役ではないので、またの登場を待とう。

福岡でこんな話を聞いた。

「黄興は、宮崎滔天に連れられて鹿児島を訪れている。」

黄興と言えば、辛亥革命の指導者の一人であり、孫文につぐナンバーツーのポジションにいた人物である。自分の耳に入ってきたこの一言が何やら自分の脳みその中で怪しい動きをしている。

2017年3月に鹿児島を訪れていたことを思い出す。思わず自分のスマホを開いて、写真フォルダと自らの記憶を遡る。すると、黄興が南洲墓地に訪れた記念碑の写真が飛び出してきた。鹿児島の西郷隆盛のお墓に行った時に「なぜ辛亥革命の中国人の関係者の記念碑があるのだろうか」と疑問に思って写真に撮っていたのだ。

黄興が南洲墓地を訪れた記念碑は、『黄興先生南洲墓地参詣之碑』というらしいが、自分の写真フォルダの中には記念碑の全体像の写真は残っていない。きっと記録用に記念碑の説明書きのみ写真に撮ったのだと思う。記念碑には、こんなことが書かれている。

孫文と共に中国辛亥革命の代表的志士であった黄興先生は、1874年、湖南省長沙市の学者の家に生まれた。性格は寡黙で沈着豪胆、体格も偉大で英雄の風格があり、名文家、能筆家としても有名であった。

1902年、選ばれて日本に留学し、東京の弘文学院に入学したが、早くから民族主義に目ざめ「華中会」の会長に推挙されるや、孫文の「興中会」と日本で統合を図り、1905年「中国同盟会」を結成して、清朝を打倒し、中国の民主化を目指す革命運動の推進力となった。

1909年(明治42年)、友人の宮崎滔天の案内で鹿児島を訪れ、ここ南洲墓地を参詣した際、次の詩を賦した。

八千師弟甘同塚 事維争一局棋
悔鑄当年九州錯 勤皇師不撲王師

黄興先生は1916年、志半ばにして上海でその波乱に満ちた生涯を閉じ、後に故山の長沙市岳麓山に国葬を以って埋葬されたが、終生、中国の西郷南洲を自認し、南洲翁の人格と思想に傾倒した。

黄興先生の憂国の至情を追慕すると共に、その出身地、長沙市と鹿児島市との友好都市盟約締結25周年に当り、両市の交流が更に深まることを切望して已まない次第である。

孫文は、1924年に神戸に訪れた際に「明治維新は中国革命の第一歩である。中国革命は明治維新の第二歩である。」と語っていたそうだ。辛亥革命に従事した志士たちは明治維新を意識していた。黄興も明治維新に自らの心を躍らせた一人であった。明治維新の指導者は、西郷隆盛である。

点と点が繋がった。僕が辛亥革命に興味を持った場所は福岡である。そこから辛亥革命を学ぶために香港・広州へ行った。そして、福岡で聞いた小話から、鹿児島と中国が繋がった。僕にとって福岡は、素材と素材をつなぎ合わせる接着剤のような働きを持つ場所である。それだけでなく、福岡でいろんな方々と触れ合う中で人生が激しく変わってしまった。もはや接着剤を通り越して、着火剤と言ったほうが正しい。

「黄興が鹿児島へ行った」という話は以前にもどこかで聞いたこともあるだろうし、読んだことがあるだろう。けれども、今このタイミングで知るのは特別の意味を持つ。情報は、いつでも同じ姿である。けれども、情報の受け手である人間が常に変化している。情報の価値とは、受け手の状況によって決まってくる。だから、切り口や文脈は非常に大切だ。

黄興にとってみれば、宮崎滔天が接着剤であり、着火剤であったのだろう。その宮崎滔天にも接着剤や着火剤がいたはずだ。歴史とは、小さな連鎖が徐々に大きく渦巻いていき、人々が生み出していく。

辛亥革命を見つめていると、日本の姿が浮かび上がってくる。それは明治維新(御一新)という変革である。明治維新の志士たちは、『靖献遺言』や陽明学という学問に感化された。『靖献遺言』の登場人物も中国の英雄であるし、陽明学も王陽明という中国の変革者である。日本の明治維新を見つめると、中国が浮かび上がってくる。日本と中国は、まるで鏡のような関係だ。海を挟んでパラレルワールドが展開されているようにも見える。

つづく。