映画「不思議なクニの憲法」の上映会を終えて

By 桐山 洋平 / On

松井久子監督の「不思議なクニの憲法」の映画の上映会をした。

ここから僕の完全な主観で感想を書いていこうと思う。僕がこの映画を通して一貫した感じたのは「生活の中のリアルな憲法の姿」を追いかけていることだった。

「憲法」と聞くと、何だかとても難しく感じてしまう。とても権威的であったり、自分たちの生活とはかけ離れ、雲の上にあるもののような気がしてしまう。しかし、実際には、それは自分が勝手に作り出した憲法の雰囲気やイメージなのだろう。「不思議なクニの憲法」は、そのような身勝手な憲法のイメージを崩してくれた。

生活や人々に近いところから憲法を見つめようとする監督の真摯な姿勢が伝わってきた。映画の本筋とはちょっと離れたエピソードで細やかな監督の目線を感じた。たとえば、映画には戦後教育を受けた女性たちが戦後直後の学校生活を回想しているシーンがある。ある女性が一つのエピソードを語っていた。

その女性が学校に通っていたころ、男子生徒と言い争いになり、その男子生徒がその女性を侮辱的なことを言った。すると、当時女子生徒だったその女性は「だって憲法に男女平等って書いてあるもん!」と男子生徒に言い返した。

僕は戦後直後を生きていないので、想像力を働かせる以外には手はない。けれども、その女性のささやかなエピソードから、女性が女性であるがために被っていた社会的な抑圧から解放された喜びを彷彿とさせる。

「だって憲法に男女平等って書いてあるもん!」という、その小さな女子生徒の反抗は、憲法が彼女に近く、優しく、そして強く寄り添い支えていたことを物語っていた。憲法との一定の距離を感じていた僕からすれば、その女の子の小さな抵抗の言葉ほど、生々しく感じるものはなかった。

日本国憲法に家族生活における個人の尊厳と両性の平等を記した24条をGHQ憲法草案に盛り込んだのは、ベアテ・シロタ・ゴードンという日本滞在経験のある女性である。戦前の日本の女性の姿をよく見ていたのだろう。

他にも、日常を感じさせるストーリーがあった。SEALDsという日本の学生を中心に組織された政治団体がある。ここに所属する元山仁士郎さんが自らの経験を語っていた。元山さんは、小さい頃から野球をやっていた。いつも友達と野球を楽しんでいた。たまたま遊んでいたら野球ボールがどこか遠くに飛んで行ってしまった。そして、そのボールが到着したのは、米軍基地であった。ボールがなくなってしまったので、友達との野球を止めて、仕方なく帰らないといけなかった。友達との会話をしているときには、頭上に米軍飛行がゴーっと凄まじい音を立てながら通りすぎる。その轟音は、友達との楽しい一時に強制的に侵入してくる。

元山さんからすれば、きっと沖縄の日常は、常に米軍基地の存在を意識せざるを得なかった。SEALDsほどに知名度のある政治団体になってしまうと、政治的なメッセージ性が強くなりすぎてしまう。そうなると大きな政治的な構造の中に飲み込まれてしまって、政治的なメッセージのみが一人歩きしてしまう。元山さんがSEALDsで活動し始めたのには、強い問題意識があるだろうし、彼にとっては日常に溢れる沖縄の基地問題であったのだろう。元山さんが自らを語る姿は、SEALDsという大きな組織を超えて、自分にダイレクトに訴えてくるものがあった。元山さんを個人として見ることができて良かった。

上映会の後に、参加者で話をしていた。話題が沖縄に移った。その中で出た「72年に沖縄が返還されるまで、沖縄は日本の憲法の保障下になかった。本当は沖縄が返還された段階で、沖縄の人々の権利や生活がより強く保障されるように憲法改正をするべきではなかったのか」という意見が印象的だった。また別の人は「第二次世界大戦の沖縄戦で、沖縄の人の中で親や子供や兄弟、家族や親戚が死ななかった人はほとんどいない。」と話していた。沖縄のリアルを少しだけ垣間見た気がした。

沖縄に一度も行ったことのない僕は、沖縄の問題にどのような立場で関わっていけばよいのかと悩む。沖縄の歴史を熟知しているわけではない。もし自分の親や祖父母が沖縄出身であれば、もっと当事者意識を持つことができるだろう。しかし、僕にはそんな条件はない。沖縄の人からすれば、僕は完全なヨソ者であり、本土のぬくぬくと「平和」を貪っている第三者である。明らかに不完全なところからスタートしなければならないが、気付いてしまった以上は、気になって仕方がない。どこかで妥当な点を見つけて、取り組んでいこうと思う。

この映画では、沖縄もテーマの一つに入ってくる。映画では「憲法で沖縄は守られているのか?」と問いを投げかけていた。この映画では特に明確な答えを出していないようと思えた。この問いは、自分たちが今後考えていくべき問いなのだろうか。

この映画は、2時間30分とかなりの長編である。立憲主義や条文の内容といった憲法の中心的なテーマだけではなく、沖縄や戦後の歴史などテーマが多岐に渡る。映画を観ながらノートを取っていたけれども、結構なボリュームになった。この映画の情報量は、何十冊かの本に値するだろう。

聞いたところによると、この映画は以前は2時間の長さだったそうだ。それが2016年の参院選後にリニューアルをして、30分長くなったそうだ。前回と比べて、何が追加されたのかというと、さきほどの沖縄である。もう一つが法哲学者の井上達夫氏のインタビューである。

井上氏は、憲法のスタンスでは、9条削除論を展開している。そのポイントとしては、9条はどう読んでも戦力と交戦権を否定している。だから、自衛隊の存在は、憲法の枠の外の存在にある。なので自衛隊は憲法上コントロールすることができない戦力である。現実との乖離が激しいため、その9条の矛盾を無くすために、9条を削除することが必要である。さらに、戦力を憲法上の合法的な規制を加えるために、新しい条文を憲法に追加するべきだということを述べている。

井上氏の憲法9条に対する姿勢は、烈火のごとく厳しい。井上氏が言うには、憲法9条を本気で成立させるならば、家族や友人が殺されても自分は殺し返さないという峻厳な自己犠牲の精神が必要であるし、同じことを他人にも強要しなければならない。つまり、9条を護持するのであれば、聖人的な精神力が必要であるということだ。井上氏は自身の母親が沖縄出身であることを告げ、こうした激しい態度が、なぜ生まれるのかが理解できる。

映画の内容が沖縄に入る前に「憲法で沖縄は守られているのか?」という問いが提起された。井上氏のインタビューは、自身の母親を通して、映画で触れられた沖縄とのつながりを感じさせる。そして、この映画は井上氏のインタビューで終わることになる。

「憲法で沖縄は守られているのか?」という問いの答えは、井上氏が語っていた9条削除論なのだろうか。もしくは、理想と現実との乖離に憤りを覚える答えなき怒りなのだろうか。

この映画はリベラルや護憲派を中心にインタビューされていることもあり、これは監督の政治的なスタンスを示すものである。なので、監督の考えはリベラルや護憲派に位置しているのだろう。しかしながら、大枠では同じスタンスであろうが、映画で取り上げられる憲法の各論は多様であるし、決して画一的ではない。

さらに憲法観に関していえば、対局的なものを取り上げている。たとえば、現実と理想は離れているものであり、現実を理想に近づけるための規範として憲法を捉えてる伊藤真氏と、憲法とは権力や現実を法的に規制するための砦と考える井上達夫氏や長谷部恭男氏とは、対称的である。また、井上達夫氏や伊勢崎賢治氏は護憲的改正を訴え、長谷部恭男氏は現状の政治状況で憲法改正をするのは、敵に手を貸すだけだとして憲法改正の可能性を一蹴している。

このようにリベラルや護憲と一口に言っても、憲法に対する考えは一枚岩ではない。護憲という勢力にも、ある種の矛盾を抱えていることを描いているようにも思えた。監督は、自身の政治的な立場にも、このようにあえて批判的なメスを入れている。自らが攻撃や批判されることを覚悟の上で、前に強く踏み込んだ監督の姿勢には、心が強く惹かれた。自らの保身を破って、監督がこの映画を通して訴えたかったものは何だったのだろうか。

憲法には「私はどう生きるべきか」書いてある。この一文はこの映画のキャッチコピーである。

映画の中で、ある女性の話が出てくる。自分自身を見失い、気持ちが塞ぎ込んで目の前が真っ暗になっていた。そんなとき、彼女は憲法のある条文と出会う。

憲法 第13条
すべて国民は、個人として尊重される。

自分は、自分を見捨てていた。けれども、憲法は自分の存在を肯定し、受け入れてくれていると彼女は感じたのだろう。憲法は一人の人間を救う言葉にもなる。

憲法は、私たちに何を語りかけるのだろうか。

つづく。