「私たち自身が革命なのだ」

ドイツの芸術家ヨーゼフ・ボイスの言葉である。この言葉をわきまえている人にとっては、この後の文章は全て蛇足であろう。良き実践家に説得は不要である。彼らに必要なのは、仕事をするためのフィールドだからである。

堀田真紀子さんが書いた『ナウトピアへ』という素敵な本がある。

僕は日々の仕事であったり、憲法の取り組みであったり、思うがままに動いているが、「どんなモチーフで実践していくか?」という問いに明確な姿勢を持てていなかった。同じように「社会への問題意識はあるけど、何をやるべきか分からない」「周りの人たちのやり方に違和感がある」など課題意識を抱えてる人もいるだろう。

そんな人にとって、『ナウトピアへ』はとても参考になる本だと思う。

この本を読んでいると、節々に「社会を変革したい」という強烈な想いが伝わってくる。もちろん未来の革命家にも、この本はピッタリのはずだ。

ここで約300ページの著作の中で、自分が最も引かれた言葉の塊を引き抜いてこよう。

彼(ヨーゼフ・ボイス)が「アート」と呼ぶのは、美術や音楽といった狭義のアートに限らず、クリエイティビティと自己決定に貫かれた、自分の「作品」というに相応しい、あらゆる職業実践をさす。それぞれの人が、それぞれの職業、社会的な役回りのなかで、自分のクリエイティビティを、利潤原理にも、組織利害の力学にも屈せず、個人がその全責任をおった自由さで行使するという意味である。そのとき、自分の仕事が、自分がみたい世界のヴィジョンの似姿そのものになるし、また自分で誇りにでき、自分のサインをそこに加えられるものになる。つまり一個のアート作品になるのである。それは私たちの言葉を使えば、「今のチャルカ運動」としての仕事にほかならない。一人でも多くの人が、一斉にそのような「アートとしての仕事」をはじめるだけで、革命が進行し、社会も人も、ボトムアップでどんどん健やかになっていく。その様子を、彼は「社会彫刻」というアート作品を皆でつくっていくプロセスとして思い描く。

『ナウトピアへ』P71

一人一人がアーティストとして自分の理想を体現させる。それが社会全体で見ると、あたかも「彫刻」のような社会作品になっているというイメージである。社会彫刻という言葉のおかげで「社会をつくる」と聞くといかにも肩の凝りそうな生真面目な行為が、好きな絵を描いていく創造的で楽しげな営みにスッカリ変わってしまう。

そして、筆者が二項対立ではなく、グラデーション的に世界を見ていることに、とても共感した。私たちは一面的な被害者でも加害者でもなく、淡いグラデーションの中に生きている。そして、現状を容認するのではなく、より良い社会に向けて少しづつ自分たちをシフトさせていくのである。

今の世の中、資本主義にまったく加担せずに生きていくのは、だいいちとても難しい。となると、全体としてみて、そこにあるのは、皆、それぞれ白と黒とも断定できない、つまり敵対する両陣営というより、灰色のさまざまなグラデーション下にあるという点では同種と考えられる人々である。(略)イギリスの帝国主義こそ敵だと思っている人たちに対して、ガンジーが口酸っぱく、「それを支えているのは、何と言っても私たちなのですよ」といっていたポイントもここにある。二つの対立する陣営があるのではなく、ただ旧い世界のシステムに対する自律性のグラデーションがあり、皆がこの自律性の度合いを高めていくことに勝利があると考えるとき、社会変革として、チャルカ運動が意味をもってくる。

『ナウトピアへ』P196

今取り上げた言葉のブロックの中にも「チャルカ運動」というキーワードが登場してきた。これは後に触れよう。そもそも、なぜ堀田さんはこの本を書こうとしたのだろうか。筆者の問題意識を探ってみよう。

まず、環境問題にしろ、原発などに依存しない安全で持続可能なエネルギーや食料の確保にしろ、社会が今抱える深刻な問題は、私たち一人一人の、日常の生き方全体を変化させないと解決しようのないものだ。自分は無関係だと聖者顔できる人なんてどこにもいないし、日々の暮らしのどんな瞬間も、その再生産か解決かのどちらかに加担するという二者択一を問われぬ時はない。つまり、問われているのは、今、ここにいるあなた。それ以外のなにものでもない。にもかかわらず、政治家や行政、専門家、関連業者などに任せておけば何とかなるという暗黙の了解が蔓延しているように思う。つまり、問題の性質と解決のアプローチがうまく噛み合っていないように見えるのである。

『ナウトピアへ』P8

筆者は、社会に対して強い問題意識を持っているが、問題に対する解決手段に悩んでいたのかもしれない。きっとそこで「ナウトピア」に出会ったのだろう。それでは、「ナウトピア」とは、一体何を意味するのだろうか。

「ナウトピア」とは、無数の自転車乗りが道路にいっせいに繰り出すことで道路を占領してしまう社会運動、「クリティカル・マス」の創始者の一人、クリス・カールソンが、同名の著作によって、指摘、命名し、概念としてまとめあげたもので、日常生活のありふれた要素をそのままパーツとして使いながら、それらを旧い世界とは別のかたち、とくに脱資本主義的な、なるだけ貨幣を介入させないかたちで集め、組み合わせ、組み立てることで、旧い世界の上に、新しい世界のパターンを生き生きと描いていく運動をさす。

その例として彼がとりあげているのは、クリティカル・マスに代表される自転車アクティビズム、空き地をどんどん緑化するゲリラガーデナー、バイオディーゼルの普及をはかる人たち、インターネット内のオープンソース、コモンズを広げようとしているネット・アクティビストなどさまざまだが、新しい世界を待ったなしに、この場で、今、ここにあるものとして実現しようとしているところが共通している。それに様々なかたちで関わる人々、すなわちナウトピアンたちは、従来の社会運動でよくあるように、権力者へのプロテスト、非難、嘆願によって社会を変えようという発想はほどんどとらない。彼らに関心があるのは、「〜反対!」よりも、「では、どうすればいいか」、対案を示すことである。しかも、それを言葉で説得するより、直接行動で示し、実例を呈示することを好む。

『ナウトピアへ』P12

ナウトピアとは、どうやら批判や反対ではなく、対案を言葉だけではなく実例で示していく社会運動のようだ。

社会運動の終局目標が、そもそも私たちの生活を変えることなのだとすれば、難しい理屈や手続きに必要以上かかずらうのは、回り道でしかない。実践あるのみだ。(略)いきなり核心から、ゴールから攻めるという必勝法の道を選ぶことでもある。それは、いつまでたっても前置きにかまけていて、ゴールに向かって走り出すことすらできないでいるよりも、ずっといい。

『ナウトピアへ』P13

とてもシンプルな考えだ。ゴールを説得するのではなく、自ら表現するのである。この著作では、「説得」と「表現」の違いをこのように指摘している。

「説得」することと「表現」することが似て非なるものだということを理解するのが、この際とても重要だ。「説得」の際には、相手を変えることが問題になるが、「表現」の際には、どれだけ正確に、雄弁に、伝えたいことを自分が示せるかが問題になる。「表現」の究極のかたちは、「世界が変わるのを見たければ、自分がまずその姿になりなさい」というガンジーの言葉にあるとおり、まずは自分がその行きた見本、実例に自らがなることだろう。これにより表現に真正さが加わる。しかしそれに対して相手がどんな反応を見せるかについては、一切コントロールを放棄して、相手の自由意志を侵害しないというのもつながりの社会運動のポイントだ。だからこそ相手も安心して参加することができるようにもなる。

『ナウトピアへ』P182

「世界が変わるのを見たければ、自分がまずその姿になりなさい」というガンジーの言葉は、大切なことは理解できるが、なかなか重たい。そして、人は人生を通して、何かを表現していると考えれば、すべての人は表現者と言えるかもしれない。となると何かに言い訳をして実践から自分を遠ざけるのは難しそうだ。

お金も、権力も、才能もない自分には、社会を変える力もないといった無力感も、言い逃れにならない。というのも、それらは、権力を私たちの外に見て、これをとることで、外から、トップダウンで社会を変えるときに必要な社会変革の道具にすぎないからである。私たちの内からなされる社会変革は、私たちが所有する力や富、あるいはそこから帰結する他者に対する支配力、強制力の有無とは、何の関係もない。変化はむしろ、何も持たない人々の、「私はもっと本来的、十全に生きたい」という叫びと、それを実現するために、障壁を打ち破っていく勇気ある行動から生まれる。

『ナウトピアへ』P15

何かを求めると言っても、それが自分の外側にある価値を求めるのか、自分の内側にある価値なのかの違いは大きい。それは物事の物差しをどこに置くのかという問いかけにも通じる。ナウトピアンは、自らの内にある価値を大切にしている。そして、自分でやってみるというシンプルな手段によってそれを実現していく。

何より、普段の暮らしを舞台に、草の根的な実践のレベルから、新しい世界をコツコツつくっていくことこそ、閉塞状況を打開するのに必要なことではないだろうか?それには人任せにしたり、責任転嫁しないで、まずは「自分でやる!」DIY(do-it-yourselfの略称)の精神が、何にもまして重要になってくる。

『ナウトピアへ』P15

そして、ナウトピアが興味深いのは、自分と社会を別々の存在として考えていないことである。

人の意識を変え、行動も変えるようなクリエイティブで、大胆な新機軸をうちだす表現や実践がまずあって、それらが噂や口コミ、パブリックスペースでのデモンストレーションなどをふくむ何らかのメディアを経て不特定多数の様々な人々の間で可視的になる。すると、それに感応された人たちの同種の表現や実践の連鎖反応も呼び起こされていくのも時間の問題だ。このプロセスがすすむにつれて、イメージやアイディアのプール、人を鼓舞してやまないインスピレーションと情熱の源、クリエイティブな実践を次々と生み出す豊穣なカオスのようなものが共有され、一つの鉱床から生まれたびっしりとして水晶のように、新しい世界が一人一人の主体性から(何といってもあらゆる人がリーダーなのだから!)、つまり草の根から生み出されていく。

『ナウトピアへ』P18

自己実現であると同時に、社会形成的であるのが、新しい世界をつくるこの実践的文化の特徴だ。

『ナウトピアへ』P20

自己変革とは、社会変革である。それと同時に社会変革とは、自己変革である。ナウトピア的な社会変革のモデルは、旧来のモデルとは少し違った様相である。

合意形成が問題になるクラシックな政治の手続きでは、謳い文句や理想はともあれ、本当に「全員がリーダー」として振る舞い始めると混乱が生じがちで、たとえば会議が無限に長引いてしまう。しかし実践的文化による社会形成で問題になるのは、どれだけ多様で思いがけないアイディアや行動が、そこから次々に生まれ、インスピレーションの火が煽りたてられるかなので、混乱はむしろ大歓迎だ。カオスがなければ始まらないとさえいえる。ここで問題になるのは、人の数というより、そこで共有されるイメージの力、夢の力だからである。

『ナウトピアへ』P22

多様性を超えて、混乱やカオスが大切にされる社会運動を全くイメージができない。そんな常識破りな運動の形がナウトピアのようだ。ここでナウトピアの3つの特徴が挙げられている。

(1)今、ここが変革の舞台

ナウトピアンたちは、神秘的な東洋など特権的な場所に行けば、望む生活が待っているといったロマン派的な志向は持たないのだ。彼らの活動の舞台はあくまでいまここ、自分の足下、ずっとここに澄んできたし、これからも住み続けるであろう場所。日常生活の舞台であり衣食住の際限ない再生産の場所である。それはありきたりのものに見える。しかしあえてそこに意味を再定義し、変容させるのがナウトピアの仕事だ。

『ナウトピアへ』P37

(2)自分でやれ!

彼らはまた下手でも失敗してもいいから、人まかせにせず自分の手を動かしてものを機能させようとする。手作り主義、自力主義だ。(略)ナウトピアンたちは、究極のところ自分たちが望んでいるのは、これ以上所有物を増やすことでも、便利な生活をきわめてますます怠惰になることでもなく、私たち自身を変えること、たとえば苦労して新しい技術や知恵や、ものの見方を身につけて、エンパワーされることなのだと考える。

『ナウトピアへ』P41

(3)待ったなし!

ナウトピアの運動はまた、日常生活をその素材とし舞台とするので、めんどうな準備抜きに、いつでも、どこでもはじめられる利点がある。(略)新しい世界をつくる作業を〈人まかせ〉にしないだけでなく、「いつか」「準備が整ったとき」の〈未来の自分まかせ〉にもしないのである。(略)必要なのはむしろ、怖いもの知らずの不屈の自己肯定であり、自分が正しいと信じることに対するファナティックなコミットメントである。

『ナウトピアへ』P44

「今、ここが変革の舞台」「自分でやれ!」「待ったなし!」というシンプルさゆえのパワフルさが伝わってくる。このナウトピアとはサンフランシスコを中心に形作られた運動である。筆者は、サンフランシスコ発のナウトピアとインドで行われたチャルカ運動を重ねて合わせて語っている。

ガンジーのチャルカ運動は産業時代のイギリスという当時の帝国から独立するために、インド産の綿花をマンチェスターの工場に渡すことを拒むことではじまった。代わりに、インドの綿花は、インドで紡ぎ、機を織り、衣類に仕立て、インド人が着る。なるだけ自分自身あるいは顔の見える隣人が手作りしたものを、それが不可能ならとにかく国産品を使い、マンチェスターの工場で加工してできた衣服はもちろんボイコットする今の言葉で言えば、地産地消を大勢でいっせいにはじめた運動だ。植民地独立運動といっても、武力蜂起したり、機械をぶちこわしたりといったやみくもなことは一切やらない。(略)ローテク家内工業への逆行に見えながらも、一極に集中した大量生産システムを脱中心化、多中心化し、権力を分散・偏在させる、つまり一人一人が独立性を保ち、自己決定力を発揮できる道を示したという点で、チャルカ運動は、政治的には未来的な射程を持っていた。

『ナウトピアへ』P48

さらに筆者は、チャルカ運動の現代的な価値を見出そうとしている。

チャルカ運動のこの見取り図は、行き過ぎた資本主義の権力から私たちが可能な限り独立して自律的に生きようとするとき、今なお応用できると思う。権力と直接闘うのではなく、それに対する依存度を下げていく。代わりに、なるだけ自力、あるいは顔の見える関係の直接的なやりとりでまかなうシステムをつくり、独立の基盤とする。ローテクでスローでへたくそでもいい。重要なのは、生産と消費の全プロセスを自己決定し、掌握し、また責任をとることだからである。

『ナウトピアへ』P51

ナウトピアとチャルカ運動の共通点と違いはなんだろうか。

民衆の独立を勝ち取るチャルカ運動を今の時代にやろうとするとき、ガンジーの時代の綿花の相当物として私たちが奪回しなければならないのは、私たち自身のクリエイティビティとつながりの感覚だと思うのだ。

『ナウトピアへ』P65

ナウトピアとチャルカ運動の共通点がシステムからの依存度を減らし自律性を高めていくことだとすれば、相違点は、チャルカ運動が綿花、ナウトピアがクリエイティビティやつながりの回復を求める運動であるということだろう。

ガンジーは当時の産業資源だった綿花を大英帝国に引き渡すことを最後までこばみ、自分たちのもとで生産、消費することで、独立を勝ち取った。これとちょうど同じように、私たちもクリエイティビティと包括的、重層的に世界とつながる力を、利潤原理一辺倒に支配された資本主義の「帝国」に引き渡すことを断固として拒絶したい。そしてそれをあくまで私たち自身のために動員することで、独立を勝ち取るのだ。これを「今の時代のチャルカ運動」という言葉で呼ぶことにしよう。

『ナウトピアへ』P68

ナウトピアが今の時代のチャルカ運動であるならば、私たちのクリエイティビティやつながりの感覚を取り戻すには、どうしたら良いのだろうか。そこで冒頭に紹介したヨーゼフ・ボイスが登場する。

ただ、お金儲けが自己目的になってしまい、つながりの感覚やクリエイティビティがその道具としてこれに従属してしまうという構図を逆転させたいだけなのだ。ようするに、際限のない増殖を自己目的にすべきなのは、お金ではなく、つながりの感覚やクリエイティビティの方だと見るのである。(略)

ドイツの芸術家ヨーゼフ・ボイスはこのことを、「アート=資本」という公式で表現した。(略)彼が唱える「アート=資本」となる社会では、労働や消費の過程で駆使されるクリエイティビティをますます大きく、健やかに成長させることが第一義とされる。

『ナウトピアへ』P70

「資本主義」と聞いた時に「資本=お金」と無自覚的になってしまい、考えてこなかった。資本がお金ならば、お金が第一の価値基準になるが、資本がアートならば、クリエイティビティが大切な価値基準になるだろう。お金は使えばなくなってしまうが、クリエイティビティは使ってもなくならない。むしろ使えば使うほど豊かになっていく可能性すらある。

今の時代のチャルカ運動はこうして仕事で発揮されるクリエイティビティやつながりの感覚を、金儲けのために利用するべき「資源」として、貨幣としての資本に従属させるのではなく、これそのものを自己目的なもの、すなわち「資本」として扱う。このことはさまざまな変化を私たちの社会にもたらすだろう。まず、お金のためにやっつけ仕事をするような人はいなくなるだろう。その代わりに、仕事のプロセス全体を楽しみながら、心をこめて働く人たち、創意工夫の冒険に胸躍らせるはりきった人たち、人助けや自己表現のよろこびで満たされた人たち、誇り高い職人気質からとにかくいい物をつくろうとする人たちなどで、社会が満たされていくことになる。

『ナウトピアへ』P73

創意工夫や人助けや喜びに溢れた社会、それこそ革命後の社会と言える。ナウトピアンならば、その姿を言葉で説得するのではなく、今ここで自分たちのスタイルで実践していくはずだ。

彼(ボイス)の革命感をかいつまんでいうと、ざっとこういうことになる。流血も、権力闘争も一切いらない。必要なのは、私たちの日々の仕事の仕方を変えるだけ。そのためにはただ、私たちの勇気と決意、そして心底仕事を楽しむ力が問われている。「革命とは、バラの花が咲くようなことなのです」というのも、ボイスの言葉だ。

『ナウトピアへ』P74

ナウトピアは、アートやクリエイティビティなど内面的な価値を大切にし、それを新しい社会をつくる源泉に捉えていることは分かってきた。ここから筆者は、外と内の2つの権力に注目している。

ナウトピアンたちを、社会変革に必要な権力を、既存の権力をとることにではなく、新しい世界をつくることからくみ上げる人として、定義したいと思うのだ。(略)私のこの立場は、ジョン・ホロウェイが『権力を取らずに世界を変える』のなかで切り開いた地平上にある。ホロウェイ
は、権力を外圧的な「させる力power-over」と、内発的な「なす力power-to-do」という二種類に分け、「なす力」の称揚のみが、これまであらゆる闘争がおちいっていたジレンマからの脱出路であると同時に、資本主義を根本から克服する力になるのだと主張した。

『ナウトピアへ』P131

筆者は、ジョン・ホロウェイの外圧的な力と内発的な力の話を自らの観点で深めていく。

私たちの〈外〉にすでに栄光につつまれて存在するこの種の権力を、ここで「外在的権力」と呼びたい。外在的権力はその獲得をめざすことで名誉回復のための努力目標、憧れや依存の対象、あるいは反発、転覆の対象になることもある。社会変革を企てる場合も、まず権力をとってから、トップダウン的に社会を変えると考える限り、そこで考えられているのは、外在的な権力である。

これに対して、私たちが、尊厳ある存在として肯定されたあくまで自分の本性の〈内〉から、しかし周りの人たちの協働をしながら新しい世界をつくり、それを通用させていくことで、発揮する権力を「内発的権力」と呼びたい。内発的権力は、今の時代のチャルカ運動を社会を変革的に形成する権力として、外から見たとき、そこに観察される力である。(略)

内発的な権力は、それが本当に内発的権力である限り、新しい世界をつくらざるを得ないと私が考える根拠は、人はそれぞれ個人individualであり、同じ人は地上に二人といないことによっている。

『ナウトピアへ』P140

社会を変えるには力が必要である。それを外在的な権力に求めるのか、内発的な権力に求めるのかという筆者の問いかけである。筆者は、チャルカ運動やナウトピアの運動を内発的な権力の系譜に位置付けている。

そこで私が提案したいのは、確実に自分自身の内なる力の源泉、内発的な権力から力を汲みあげ、そこから自分の全権と全責任において新しい世界をつくるには、いっそのこと、あらゆる人が自分をアーティストと定義するのが、よいのではないかということである。

『ナウトピアへ』P151

筆者の考える世界では、アーティストも変革者も同じような存在なのであろう。筆者は従来の社会運動についてもコメントしている。ナウトピア的な世界観からは、どのように見えているのだろうか。

もちろん、最近のデモは、音楽や踊りや仮装をとりいれたりしてきていて、それなりに評価できる。が、それではデモのオーガナイザーが参加者のためのエンターテイメント(デモに来てもらうための餌)を提供している感は拭えない。そうではなく、全ての参加者が主体となり、オーガナイザーになれるような構造自体をつくる必要がある。

運動全体が、外在的権力をとって世界を変えるための手段、道具にすぎないとき、そこに本当の意味で内発的権力が生きる余地はあり得ない。参加者が、デモに多様な興味、個性をそこに持ちこんで、創造的な貢献をすることもできないし、そもそも、そのような創造的なタイプの人々、つまり内発的権力という、新しい世界をつくる本当の力の持ち主ほど、デモによりつかなくなってしまう。そうしてますます、デモは単調で、同じ文句のチャンティングが画一的に繰り返されるばかりの場所になってしまう。

しかし何より運動それ自体を新しい社会の創造、実例提示にする「よろこびの政治学」へ高める必要がある。そうなると、手段と目的の分離は克服され、目的のために今は手段は選ばないとか、我慢我慢といった目的論的、直線的な時間観は崩れていく。そして、それ自体が目的であり、世界の見方を新たにするような祝祭的な体験となって、生まれ変わるのだ。

『ナウトピアへ』P172

結局、デモや社会運動が、何を根拠にしているかということだろう。あくまで「自己表現」「実践」「内発的権力」「クリエイティビティ」「つながり」のような価値を根拠にした運動がナウトピア的と言える。また、社会運動をやっていると「どうやって広げていくか」という課題にぶつかる。この問題に対して、筆者はこのような言葉を残している。

しかし、諭したり、説得することすらできないのに、どうすれば勢力を拡大していけるのか。ひたすらつながりの感覚を凝集した世界の実例を示す、それしかない。そこで歓迎の戦術の出番である。印象的な言葉、五感をともなうあらゆる身振り、美味しい食べ物、こころのこもった職人仕事など、とにかく、それぞれが一番得意な媒体で、すべての人やものがつながりあうつながりの感覚として充填された世界をつくるのである。

『ナウトピアへ』P183

もしかすると動員人数であったり、規模の拡大を追い求める時点で、外在的権力の虜になっているのかもしれない。ナウトピアは最初から最後まで自らの望む世界の表現を続けていく運動である。

筆者の革命のイメージを共有して終わりにしよう。

私の革命のイメージは、ホロウェイのいう「資本主義に亀裂を入れる」に、ほんのわずかな修正を入れたにすぎない。つまり「資本主義に亀裂が入る」。結果的には同じことが起こるのだが、そのために必要なのは、黒でも白でもなく、灰色であるという点では似たりよったりの私たちが、少しずつ資本主義から自律性を獲得し、加担をやめ、殻の側から新しい身体の方へと移行し、新しい身体をつくっていくことだけ。亀裂を入れる必要もない。

革命の過程を対象化するのをやめる、と言い換えてもいい。エーリッヒ・フロムの言葉をかりれば、革命を「持つこと」から「在ること」へ移行させたと言ってもいい。私たちは革命を日常的に生きる。私たち自身の生き方、存在の仕方が革命そのものなので、私たちは自分の目を見ることができないように、私たちは革命をはっきりとしたアウトラインを持った〈物〉として、対象化してみることはできないのだ。

同じように革命を内発的な成長力による私たち自身のメタモルフォーゼの過程としてみた人にヨーゼフ・ボイスがいる。私たちが革命を起こすのではなく、「私たち自身が革命なのだ」という彼の言葉はすでに引いたが、別のところで彼は、「革命はこれまで流血に彩られてきました。しかし本当の革命とは、バラの木に花が咲くことなのです」ともいっている。これまでの革命が血なまぐさかったのは、それが外圧的権力の獲得をめぐる攻防戦にすぎなかったから。ジョン・ホロウェイの言葉をかりれば、「まず権力をとって、しかる後に世界を変えようとした」。しかし生き物がメタモルフォーゼをとげ、花を咲かせるように、内なる生命力の過剰による内在から、旧い世界の殻をやぶって、新たな世界を自ら体現し、つくっていくことこそが革命ーとなれば、私たちがやるべきなのは、旧い世界の殻を壊すことよりも、中の身体を育てることに専念することだということが、はっきりする。

『ナウトピアへ』P197

本とは、行ったこともない土地に初めて訪れたように刺激的である。それは未知なる世界との出会いだ。僕は、読んできた本が自分の人生であるような生き方をしたい。それだけでなく、自分が書いてきた文章のような在り方をしたい。

私たちは革命を日常的に生きる。
私たち自身の生き方、存在の仕方が革命そのものである。

つづく。