2018年7月21日(土)に東京都の町田にある「あした農場」でキャンプを行った。その名も「ええじゃないかキャンプVol.0」。最高気温は34度。その暑さに負けないくらいにホットなイベントになった。

「楽しかった!」

けれども、「楽しさ」だけでは回収しきれない後味が残った。今後のヒントになるのでは?という思いもあり、今日は、今回のキャンプを通じて僕が感じた次の2つのことを記しておきたい。

①キャンプは、最高である
②買い物の後ろには、作り手がいる

もちろんキャンプに参加した人と主催に近い人の気持ちの違いはあるだろう。けれども、目指して行きたい方向性は共有していると思う。今回の投稿は、あくまで自分目線でキャンプを振り返ってみた感想である。違いがあれば、そこから大いに議論を広げて話し合っていければと思う。

なぜなら、僕たちは争いたいわけではなく、次の世代に渡せる未来を作りたいからだ。

①キャンプは、最高である

僕が目指している社会は、こんな形をしている。

「美味しいものを食べ、仲間と楽しげに語る。その営みが社会全体の持続性や循環性に貢献する。」

食べることは、生きることである。どんな人間も食べることを拒否して、生きることはできない。時代を通して人間は食べるという行為を続けてきたが、きっと時代ごとに「よく食べる」という意味が変わっていると思う。

時代によって「よく食べる」は、「お腹いっぱい食べる」を意味していただろう。しかし、日本という一つの国に注目してみれば、食べ物は捨てるほど生産されている飽食状態だ。そんな社会では「よく食べる」は、「お腹いっぱい食べる」とイコールではない。

けれども、「よく食べる」という言葉は、意味を持ち続けているはずだ。僕が考える「よく食べる」の現代的な意味は「地球にも人間にも優しい食べ物をみんなで一緒に食べる」である。ここには食べ物だけではなく、その人が食べる文脈や環境も大切だという意味を込めている。

気のよく知れた仲間や家族と一緒に旨いご飯を食べれば、美味しさが増幅する。そのことを僕たちは経験的に知っている!

シンプルに言えば、「よく食べる」→「よく生きる」→「よい社会」というポジティブな循環がグルグルと回るようになれば嬉しい。

そんなことを考えながら、キャンプの準備をしていた。

百聞は一見にしかずである。僕の面倒な文章を読むよりは、キャンプの写真を見てもらったほうが話は早そうだ。

キャンプでやったことは、次の通り。

❶あした農場に集合する
❷テントを張る
❸竹やぶで竹取り、竹を加工する
❹有機野菜の収穫
❺流しそうめん
❻肉と野菜を焼いて食べる!そして飲む!
❼適度に涼む
❽みんなと語らう

❶あした農場に集合する
❷テントを張る

買い出しチームは、小田急線の唐木田駅に集合し、飲み物などを購入し、町田市小野路のあした農場へ車で向かう。準備から参加するメンバーは、10時にあした農場の畑に集合する。

メンバーが何となく集まったら、会場設営を開始する。5台のテントが連なった会場を遠くから見ると、マルシェでもやりそうな感じある。しかし、今回はマルシェではなく、キャンプである。

❸竹やぶで竹取り、竹を加工する

キャンプのメインディッシュは、流しそうめんと有機野菜のBBQである。けれども、流しそうめん用のキットは、自ら調達しなければならない。

あした農場の農園主の渡辺さんが出した「竹やぶで竹を取って、自分たちで作れば良いじゃないの?」という提案に乗っかった。そこで、流しそうめんで使うキットと食器を自分たちで作ることになる。

地主さんの了承も得た上で、竹を取りに行く。まっすぐ高く伸びた1本の竹に目をつけて、いただく。参加メンバーの子どもと共に竹取りに参戦する。


竹やぶには大量の蚊が潜んでいる。虫除けスプレーも吹きかけず、半ズボンで意気揚々と竹やぶに乗り込んだ僕の足がボコボコになったのは、言うまでもない。

竹を取った次は、流しそうめんキットと食器の加工を行う。メンバーがこなれた手つきでコップや箸を次々と生み出していく。さっきまで土からグーンと生えていた一本の野生の竹が、人間に適した日用品へと姿を変えていく。


❹有機野菜の収穫

あした農場は、化学肥料や農薬に頼らずに自然の力で野菜を育てる有機農家である。旬の食べ物を収穫し、その場で調理して食べれば、美味しいはずだ。生産と消費を同じ場所で行う。


今回は、夏野菜のナス(長ナスと丸ナス)とピーマン(緑のピーマンと白いピーマン)とプチトマトを収穫する。ナスを収穫しているときに驚いたのが、太陽の下でふっくらと実ったナスの美しさ。「野菜が美しい」と感じたのは生まれて初めてである。野菜の生命力をビシビシと肌で感じる。

❺流しそうめん

流しそうめんキットが組み立てられる。カマドで茹でたそうめんを竹に流す。流しそうめんは、見ているだけで涼しげである。もちろん食べても涼しい。


子どもたちが先頭に立ち、そうめんを待ち受ける。口からそうめんが溢れてたり、お箸に大量のそうめんを器用にキープしている。子どもたちの食べることへの情熱は、凄まじく素晴らしい。


今回のキャンプには中国人の留学生が参加してくれたが、話によると中国には流しそうめんの風習がないようだ。もしかすると流しそうめんは蒸し暑い日本の夏を乗り越えるために先人たちが考案したサマーカルチャーなのかもしれない。

❻有機野菜と肉を焼いて食べる!そして飲む!

さきほど収穫した野菜を適度な大きさに切って焼く。焼きナスを口に放り込むとジューシーな汁が口に広がる。メンバーが持ち寄ってくれた味噌や桃やトマトなどの食べ物がキャンプをグレードアップしてくれる。竹から作ったコップにビールを注ぎ、乾杯する。竹の香りがするビールもなかなか洒落ている。

メンバーの一人が岡山でゲットしたジビエ(イノシシの肉)をチャーシューにして持ってきてくれた。ジビエのチャーシューの入った玄米チャーハンは、感動的な美味しさである。もちろんBBQにふさわしく大きな肉も焼き上げる。


❼適度に涼む

キャンプの週は猛暑が続いていた。キャンプをやるときに一番心配したのは、暑すぎ問題である。幸いにもキャンプの当日には気持ち良い風が吹いてくれた。

東京のコンクリートジャングルにいると、太陽光がコンクリートに反射して身体を刺すような暑さになる。けれども、畑に来てみると、同じ気温でも涼しい気がする。木陰ができれば、良い感じに涼むことができる。

水の入ったバケツに頭を突っ込むというダイレクトな涼み方をするメンバーもいた。木陰の下にあるハンモックに気持ち良さそうに揺られていた。ちょっと前には、ハンモックの上は、子どもたちの格闘場になっていたが。


❽みんなと語らう

今回のキャンプには17人が参加してくれた。お互いに初対面の人もいたので、乾杯後に自己紹介をしながら話を回していく。

現在に至るまでの経緯や問題関心は、人それぞれである。普段よく会っている人も、こういう場で改めて話を聞いて「そういう一面もあったのか」と新しい発見もあった。普段近い人でも本当に知っていることは多くはない。

仕事のこと、家族のこと、政治のこと、真面目な話、楽しい話など、いろんなトピックの話がその場に広がった。

誰かの口から漏れた「マツリゴト」という言葉が僕の印象に残っている。それは「今の日本にはマツリゴトが足りない」という文脈だったか、「今のキャンプはマツリゴトみたいである」という文脈だったかは僕の記憶がおぼろげである。

けれども、いろんな立場の人たちがオープンな場所で、過去・現在・未来について話し合うのが、マツリゴトであるならば、そういうカルチャーは是非とも大切にしていきたい。

最後に記念写真を撮って解散!楽しさと美味しさと真面目さが融合したイベントが無事終了!

②買い物の後ろには、作り手がいる

ここで「ええじゃないかキャンプ」が生まれた経緯を簡単に振り返っておこう。僕は憲法草案を作ったり、社会的な話題に関心のある人間である。僕が直接民主主義(ダイレクト・デモクラシー)と憲法に関するイベントを開いたことをきっかけに「なんかやろう」と定期的に仲間で集まるようになった。

仕事や生業の合間を縫って隔週で顔を合わせて会話を重ねていった。何度か話し合いを重ねているうちに「選挙だけが社会的運動ではない」「怒りのエネルギーではなく、もっとポジティブなムードでアクションをできないか?」「美味いメシを食べて話し合えば多くの問題は解決に向かうのでは?」などの意見が出た。

もちろん会議ばかりでは何も動かない。自分の人生を振り返っても、計画を立てるのが一番楽しい作業であり、計画を実行するのが一番難しい作業であったりする。何事も実行に移すのが厄介である。

いろんな話が出ていたが、「まずは仲間内で美味いものを食べながら話し合ってみよう!」という流れになり、まずは仲間でお試しでキャンプをやってみることになった。

僕たちの話し合いで注目を集めたのが「ナウトピア」というコンセプトである。ナウトピアとは、どこか遠くの世界に自らの理想郷を築くのではなく、いまここから自分たちが実現したい理想的な社会を自らが表現していく。

ナウトピアンは、「誰かがやるだろう」と他人に期待するのでもなく、「未来の自分がやるだろう」と未来の自分にも期待しない。問題は「いまここで自分が何をするか?」という問いにいかに答えるかである。そこで大切なことは、知識の多い少ないではなく、自分でトライしてみる実践的な精神と言える。

自分たちが実現したい世界があるならば、他人に任せるのではなく、自らの手で作るのが一番良い。なぜなら欲しい未来をよく知っているのは自分たち本人だからである。僕たちは社会をつくることに対して消費者であってはいけない。自分たちの要望を注文して、お金を出して、そこで商品としての社会が与えられる。もしその商品がご希望通りでなければ、クレームをつける。そんな姿は健全なのだろうか。社会は買うものではなく、作るものであるはずだ。

批判的な精神や怒りのエネルギーも大切ではあるけれども、理想像を描き続ける作業を怠るのは良くない。たとえ規模が小さくても、一瞬であっても、自分たちの望む世界観を実現できたとすれば、それは大変素晴らしいことだ。なぜなら、その世界観は何かしらの方法で他の人に体験してもらうことができるからだ。ないものは伝えられないが、あるものは伝えられる。

「食べ物が安すぎる。」これはキャンプの中で出た言葉である。人間にも環境にも安全で優しい食べ物を作っているのだけど、食べ物の値段が安すぎるので、食料生産に関わる従事者の生活がとても大変だという意味である。

あした農場の渡辺さんも似たような問題意識を持ちながら、農家を始めたそうだ。「農家を始めて気づいたのは、食べ物が安いのは、農家の問題だけではなく、社会全体の問題である」と話していた。

「食べ物は買うものではなく、作るもの。」会議のワンシーンでのメンバーの発言である。今では、都市で生活をしている食べ物はスーパーやコンビニで買うのが当たり前になっている。けれども、自然溢れた田舎へ行けば、もしくは少し時代を遡れば、食べ物を作る光景は日常的であった。

衣食住という言葉もある通り、「食」とは社会の基盤である。もしかすると「食」に対する僕たちの態度やスタンスは、社会に対する態度やスタンスと共通するのではないか。逆に言えば、「食」に対する姿勢を変えることは、社会レベルで見れば大きなインパクトがあることかもしれない。

今回のキャンプでは、農場で取れた野菜をその場で食べるという形で生産と消費を同じ場所で行った。そうすると普段とは違う風景が見えてくる。たとえば、黄色のプチトマトを収穫している時の一コマ。あした農場の渡辺さんがこんなことを話す。「表面に少し割れ目ができているプチトマトが一番熟していて美味しいんだ。けれども、見た目が良くないからスーパーでは売れないんだよ。」

熟して美味しいプチトマトがスーパーに並ばない。こうした事実を、いつも市場に出回っているものを消費しているばかりでは、知る由もないだろう。「スーパーやレストランなど市場で買うものだけが全てではない」という当たり前のことを農場で実際に収穫してみるとよく分かってくる。

もう一つ。キャンプを始める前の買い出しで、プラスチックのコップをあまり疑うことなく買った。竹を切って食器を作るというプログラムがあるのも関わらずである。けれども一本の竹を切り、割れば、簡単な皿やコップや箸を自分たちで作ることができた。スーパーで買ったプラスチックのコップと竹で作ったコップを見比べて、「必要なものは買わないと手に入らない」という思考が自分の中に深く染みついていることを改めて知った。

僕は、ここで「全ての人が今の仕事を捨てて、自分の畑や田んぼを持ち、自給自足の生活をするべきだ」と言いたいわけではない。自分たちの日常にありふれたもの(ここでは食べ物)が生み出される過程を知ったり、体験することができれば、社会の見方が変わるのではないかという提案である。単純な消費行動であったとしても、そこに生産者の意図や想いを感じ取ることができれば、物事の意味合いが変わってくるはずだ。

たとえば、最高気温が30度を超える真夏日では、早朝の4、5時に作業を開始する。日が昇り始めて、太陽がギラギラと焼き付ける昼間は、体力を消耗しないようにお昼寝をする。そして、日差しが弱くなってきた頃に作業を再開し、日が暮れるまで作業を続ける。このような農家の夏の過ごし方を僕たちは案外知らなかったりする。暑さを耐えながら日中に農作業をするのは、大変な苦労である。僕も半日手伝いをするだけで、もうバテてしまう。けれども夏野菜は、そんな風にできているのだ。

僕は消費の全てを否定したいのではなく、無機質的な消費である。社会の中で人と人はどこかで繋がっている。そうした温かみのある有機的な繋がりを意識できる生産と消費のあり方を目指していきたい。

「買い物の後ろには、作り手がいる。」そういうことを知ったキャンプであった。その意味で、今振り返ると楽しさと真面目さが混じり合ったユニークな時間だったと思う。自然にも人間にも優しい食べ物を自分たちで収穫し、料理し、食べる。畑は、食料生産の場だけではなく、大人や子供たちの学び場・遊び場でもあり、未来を語る時間を共有する場でもある。これは社会運動の一つのあり方ではないか。

今回のお試しキャンプで何か特別なことが決まったわけではない。けれども、今までとは少し違った風が吹いた。自分も含めて、参加してくれたメンバーが思い思いに何かを持ち帰ってくれてたらありがたい限りである。

つづく。