先日、愛知県豊橋にある「愛知大学東亜同文書院記念センター」に訪問してきた。

理由は、孫文や山田兄弟の足跡を知り、自分の今後の糧にしようと思ったからである。

山田兄弟とは、兄の良政と弟の純三郎のことで、この両兄弟は、生涯を通して孫文を支え、中国革命に燃えた人物である。

私が知りたかったのは、山田兄弟が何故に孫文に共鳴し、中国革命に身を投じたのかということである。その手がかりを探りたかった。

兄・良政は、1900年に南京同文書院(のちの東亜同文書院)の教授に就任し、弟・純三郎は南京同文書院に入学し、のちに同学校の職員として働いている。

東亜同文書院は、荒尾精が設立した「日清貿易研究所」が母体となっている。荒尾精は、東アジアの安定のためには日中間の貿易によって日中連携の必要性を訴えた。そして、日清貿易研究所を作り、貿易実務を担う人材を育てた。

さらに荒尾精、荒尾の盟友の根津一、東亜同文会の近衛篤麿を中心に、1901年に上海で東亜同文書院が設立され、初代の院長には根津一が就任する。現代風に言えば、ビジネススクールである。

しかし、この学校では実務ばかりを教えるのかと思いきや、根津院長は、儒教を基礎にした倫理や道徳の教育を重視したそうだ。根津院長には、何のための貿易なのか、何のためのビジネスなのかを決して忘れるなという考えがあったのだと思う。

「興学要旨」には、このように定められている。

「中外の實學を講じ、中日の英才を教え、一つは以って中国富強の本を立て、一つは以って中日揖協の根を固む。期するところは中国を保全し、東亜久安の策を定め、宇内永和の計をたつるにあり。」

実学を教え、中国を豊かにし、日中提携の基礎を固め、東アジアの安定と世界平和を目指す。それが東亜同文書院が存在している意味であった。

根津院長の「大学の道は、明徳を明らかにするにあり」という人格形成を重んじた教育方針は、根津精神と呼ばれ、のちの書院生に影響を与えたそうだ。

山田兄弟は、このような気風の学校にいた。

もちろん私は山田兄弟本人ではないので、彼らの心を現代人の目線から推し量ることしかできない。しかし、彼らが中国革命に共鳴したのは、自らの名誉欲や金銭欲といった私欲からではないだろうと思う。名誉欲や金銭欲を満たすためなら、革命以外にもっと最適な方法があったはずである。

こうした人々に支えられた孫文だからこそ、孫文が好んだ「天下為公」という言葉が、言葉としての意味を持ち得たのではないだろうか。

孫文は、日本人のなかで最初の革命の犠牲者となった山田良政の追悼文の最後にこのように綴っている。

「民国が成立して七年、君の弟純三郎ははじめて君の遺骨を持ち帰って葬った。今また君のために石に刻んで後世の人のために示す。君は平生情誼にあつく、君の親族友人はみなそういっていることは言をまたない。私は重ねて君を惜しむ、故にひとり君の死の委細をここに明らかにし、さらに祈願する。この山田君の中国人民の自由のために奮闘せし平等の精神を東方に於いて嗣ぐ者あらんことを。」

しかし、孫文が死に、日中の間に厳しい時代がやってきた。1943年には学徒出陣によって、書院の学生も通訳として従軍した。東亜の安定を目指した東亜同文書院からすれば、これほど悲劇的なことはなかっただろう。

1946年3月に上海にあった東亜同文書院大学は解散を余儀なくされたものの、最後の学長を務めた本間喜一学長によって、日本での東亜同文書院の復活を目指した。しかし、GHQが「東亜同文書院」の名前の使用を禁止したために、東亜同文書院としての再起は不可能となった。

1946年11月に「愛知大学」として愛知県豊橋に新しいキャンパスを構え、再スタートした。GHQは東亜同文書院大学の復活を禁じたために、東亜同文書院と愛知大学は法的に別組織とされているが、愛知大学は自らを「東亜同文書院大学」の後続大学と位置付けている。

本間喜一学長は、終戦直後の慌ただしい中、東亜同文書院時代の成績表を中国から日本へ持ち帰った。その成績表は、現在も愛知大学の東亜同文書院記念センターに展示されている。

記念センター職員の方に話を伺った。

少し前の時代まで「東亜同文書院」と聞けば、「スパイ学校」や「帝国主義の手先」というネガティブなイメージが世間で強かったそうだ。また、従軍した卒業生の複雑な心境もあり、「東亜同文書院」を大々的に打ち出すことは困難だった。

しかし、愛知大学の職員や関係者らの尽力によって、「東亜同文書院の中国研究は優れていた」と評価が変わってきた。そして、等身大の東亜同文書院の姿が現在の私たちに伝えられることとなった。

東亜同文書院の名物は「大旅行」である。書院で学んだ学生は3〜6ヶ月の間、中国へ乗り込み、現地の商業慣習や風習をフィールドワークし、調査報告書にまとめる。その報告書は、「旅行報告書」として卒論の代わりとなる。東亜同文書院が残した資料は、戦後中国政府に回収されたが、その旅行報告書は、中国の近代化の資料として大いに役立ったそうだ。

書院の学生が大旅行で中国に赴くときには、中国政府から特別なビザを発行してもらった。さらに学生が危険な地域に調査で入る際には、中国政府が兵隊を派遣し、学生の安全を守ってくれたという。このような断面的なエピソードからも東亜同文書院と中国との関係性が見えてくる。

最後に「一道同風」の揮毫を見せてもらった。これは東亜同文書院の20周年を記念し、中華民国大総統を務めたこともある黎元洪が東亜同文書院へ送った書である。

私は、孫文と山田兄弟への関心からこの記念センターを訪れた訳であるが、思いがけず「東亜同文書院」の物語に触れることができた。

もし現代に根津院長が生きていたら、学生に向けて何を説くのか。そして、倫理的な教えと実学を学んだ学生は、どんな大旅行を展開するのであろうか。












つづく。