2019年7月26日から29日にかけて、福岡へご挨拶のために出かけてきた。

過去のカレンダーを追ってみると、4年前の2015年7月26日に福岡を初訪問したみたいであった。

福岡の出会いによって、自分の目は大きく開き、海を越えてアジアを意識するようになった。

この4年間を振り返りつつ、右も左も分からない自分を暖かく迎えてくれた方々、そのような環境を育んだ福岡の気風に感謝している。

今後、自分が何を目指していくかを理解していただくには、自分の言葉で語るよりも、福岡の先人たちがやってきたことを知ってもらうのが良いと考えている。

玄洋社墓地(崇福寺)

高場乱

頭山満

来島恒喜

広田弘毅(聖福寺)

平岡浩太郎(聖福寺)

杉山茂丸・夢野久作・杉山龍丸(一行寺)

広田弘毅像

広田弘毅先生銅像碑銘

広田弘毅先生は一八七八年二月十四日、徳平、タケの長男として福岡市鍛冶町(現中央区天神三丁目)に生まれる。幼名を丈太郎といい、のち自ら改めて弘毅とす。修猷館、一高、東大に学び、柔道を玄洋社明道館にて練磨す。学を卒えて外務省に入り、山座圓次郎氏の薫陶を受く。東亜の平和維持に心を砕き、特に韓国、中国、ソ連との関係改善に努力す。外務省欧米局長、駐オランダ公使、駐ソ連大使を歴任、一九三三年国際連盟脱退後の難局を受けて斎藤内閣の外務大臣となる。

一九三六年 二・二六事件突発直後、内外の情勢緊迫せるなかに内閣総理大臣の大命を拝し、死力を盡して粛軍の徹底を期す。さらに近衛内閣の外務大臣として入閣、軍部の暴走阻止と日中戦争の早期和平を図るが果たさず第一線を退く。太平洋戦争終結に当たり、重臣としてソ連大使マリクと和平を図るも及ばず終戦を迎う。

然るに、極東軍事裁判は先生が文官なるにもかかわらず軍と通諜、大陸、南方への侵略を企図したとして絞首刑を宣す。而して当たらず、全国民、この悲報を意外とす。先生、毅然として判決を受け、一言の弁解もなく従容として巣鴨刑場の露と消ゆ。時に一九四七年十二月二十三日午前零時三十四分なり。郷党この不当を悲しみ、不運を嘆く。ここに同志相図り像を刻んで、その遺徳を永遠に顕彰せんとこれを建つ。

一九八二年五月十五日

広田弘毅先生銅像建設期成会 会長 進藤一馬

中野正剛像

中野正剛先生略伝

明治十九年二月十二日福岡市西湊町(現荒戸一丁目)に生れ、中学修猷館、早稲田大学に学ぶ。東京朝日新聞記者、東方時論主幹として健筆を揮い郷土紙九州日報を経営す。福岡県一区より衆議院議員に当選すること八回在職二十年四ヶ月其間大蔵参與官、逓信政務次官となる。後、東方会を組織し全国の青年同志を糾合。国事に奔走す。性剛直果断、愛国の至誠は熱血の雄弁。不抜の筆陣となり毅然として所信に邁進、太平洋戦争酣なるや戦局日に非なるを憂い東條内閣の退陣を図り其収拾に盡瘁。東條首相の熾烈なる弾圧に屈せず抗議するも志成らず。昭和十八年十月二十七日渋谷の自邸にて自刃。歳満五七。

門人 進藤一馬 謹書

進藤一馬像

進藤一馬先生は昭和四十七年第一七代福岡市長に就任。昭和六十一年までの長期にわたる福岡市の緑と人間味豊かな街づくりを目標に、市民福祉・文化の向上に尽力された。

特に美術館、こども病院、地下鉄等の建設により、西日本の中枢都市としての機能を高められ、本市の飛躍的発展に貢献されたことにより、昭和六十二年、本市はこの功績に対して、名誉市民の称号を贈った。

ここにゆかり深いこの地に多くの市民の篤志を得て記念像を建立し、先生の大きな功績を永くたたえる。

平成四年十一月 福岡市長 桑原敬一

中山記念碑(南公園)

中華民國 國父孫中山先生致力中國革命期間九次渡日、其間數次來福小住、當時日本志士協助中國革命者不乏其人。對中國革命貢献良多。本年十一月十二日欣逢。國父百年誕辰旅居九州華僑特在福岡建碑用誌崇敬。復承福岡日華親善協會合作乃得観成焉。

杉山龍丸にゆかりのある仏舎利塔(妙見寺)

以上、全て敬称略。

つづく。