今回は「憲法議論の先にあるもの」というテーマで考えていきたい。今年の2月に憲法草案を発表してから、少しずつではあるけれど、反響が出てきている。友人に「なんで憲法草案を作ったの?話聞かせて。」と言われる身近なレベルから、憲法に関係したイベントにゲストとして呼ばれるようなケースも出てきた。

憲法をきっかけにいろんな人と出会い、その中で憲法について考え、話し合っている。自分が憲法草案を作成し、発表するまでは、一人の作業であった。しかし、今では多くの人と行う共同作業のような心持ちである。そのように日々活動している中で、自分の考えが以前よりも少し離れた地点にいることに気づいた。昔に立っていた場所と今立っている場所を見比べ、この後に自分がどのような地点へ向かおうとしているのか思考を巡らせてみたい。

この間、本屋に出かけて、憲法に関連した新書を探していた。近頃は憲法についてどのような新しい議論がなされているかを調べるためである。目に付いた数冊の本を手に取り、目次に目を通して、パラパラと本をめくる。大日本帝国憲法や日本国憲法の制定過程に関わるもの、日本国憲法は押し付け憲法であるか否か、国体は維持されたのか、集団的自衛権と集団安全保障はどちらが望ましいのか、といった議論がその中にはあった。

確かに個別のテーマとしては僕たちに極めて重要ではあるが、あまり目新しいテーマとは思えなかった。自分が憲法草案を書くにあたって、一通りの憲法に関する論点には書籍や論文を通して触れていた。それらの書籍や論文が書かれた当時の議論から、現在の議論がそれほど大きく進展しているわけではなかった。

そこで気づいたのが、今の憲法議論の枠組みは、大日本帝国憲法と日本国憲法に止まっているということであった。これは一見すると当たり前のように思えるかもしれないが、果たして本当にこのままで良いのであろうか。

僕は、憲法は歴史的な文書であると考えている。確かに、人権や自由といった近代的な価値観や国家の理想など、憲法には普遍性の高いことが記されている。憲法に掲げられた普遍性がいくら高いとはいっても、時代的な影響は受ける。例えば、1889年に発布された大日本帝国憲法や1947年に施行された日本国憲法の条文を読んでみても、その表現が時代を隔てたものであることが分かる。

条文の表現だけでなく、憲法それ自体も時代環境に大きく左右される。例をあげれば、日本国憲法が制定された理由を探れば、それは日本が第二次世界大戦で敗戦し、ポツダム宣言を受諾したことにある。だから、もし日本が第二次世界大戦に勝ち、戦勝国になっていれば、日本国憲法が制定されることはなく、大日本帝国憲法がそのまま継続されたであろう。そして歴代の内閣は、憲法の条文を変えることなく、最少限度の武装化を行い、国民は政府の解釈改憲を受け入れてきた。

また、大日本帝国憲法が制定された時代的な背景を考えると、明治時代以降は江戸時代に西洋列強国と結んだ治外法権や関税自主権を関わる不平等条約を改正することが日本全体の共通の目標であり、この目標を達成するために日本は西洋列強国中心の国際社会に認められねばならなかった。国際社会に受け入れられるために、近代的な法体系を取り入れ、憲法を制定し、近代国家の体裁を整える必要があった。そのため大日本帝国憲法は、日本国民というより国際社会に向けた宣言書といえる。

このような意味で、憲法はその時代の要請に応えるために編み出された人の知恵の賜物であると僕は考えている。

このように考えてみると、日本を含めた世界の情勢と憲法の議論とは、どこまで関連性を持っているのだろうか。言い換えれば、世界が求めている課題に対して、日本の憲法議論はどこまで耐えうるのだろうか、また解決に向けた手がかりを提示できうるのだろうか。

米ソ冷戦が終結してから戦争の形が変わった。冷戦までは国家と国家の争いが戦争の代名詞であった。しかし、皮肉にも米ソという圧倒的な力の秩序がなくなってしまい、国内でそれまで眠っていた民族間や宗教間の対立が呼び覚まされた。現代の象徴的な民族紛争は、1994年に起こったルワンダ虐殺である。

このルワンダの虐殺とは、国内の少数派のフツ族が、フツ族出身の大統領が暗殺されたことに激情し、多数のツチ族とフツ穏健派を殺害した悲惨な事件である。この事件では、100日間にルワンダ全国民の20%にもあたる100万人が殺害されたと言われている。この民族的な対立の傷は、彼らの記憶に深く刻まれ、そう簡単には消し去ることはできない。

そもそもフツ族とツチ族の民族対立は何によってもたらされたものか。その大きな原因の一つは、西洋の植民地政策である。植民地政策が行われる前は、フツ族とツチ族は、同一の由来を持ち、農耕民族か狩猟民族かという生活習慣の違いがあるだけで、互いの民族的な違いはほとんど意識されていなかったようだ。その後、ベルギーが植民地の支配者としてルワンダに入植し、区別のなかった一つの人間集団に恣意的な民族という観念を持ち込み、二つの民族を明確に区分をした。そして、ベルギーは少数派のフツ族に様々な特権を与えて、植民地として効率よく治めようとしたのである。この分割統治とは、彼らのお家芸である。

僕は、分割統治に代表される統治手段は、西洋的な手法であると考えている。階級や身分や民族などの属性を意図的に作り出し、その枠組みによって安定的な秩序を維持しようとする方法である。ある意味では、これは彼らの歴史を通して、生まれてきた知恵である。その属性ごとに権利や義務が定義し、属性の差異を上手く利用して、国を治めるということであろう。

たとえば、タイタニック号の沈没事件は、映画になったので有名であるが、イギリス人の死者数が他の国よりも多かったそうだ。最近の研究チームの調査では、この原因を「女性や子どもを優先する」という社会規範がタイタニック号のような緊急事態に際しても身分ある多くのイギリス人に強く守られたことによると発表している。

イギリスは、憲法発祥の国である。イギリスは、個人の自由や権利を国家権力から守るという憲法の根底に流れる一つの思想を発明した。そのため憲法は、自由と権利条項の集合と呼ばれるくらいである。たしかに憲法上では、人々の権利や自由は文字に起こして明記されている。一方で、タイタニック号のイギリス人のように、成文化されていない道徳や義務といったものがある。だから、権利や自由のように明文化された法的な概念と道徳や義務という社会的な価値観や意識がセットになって、初めて憲法が実際の社会で力を持って有効に働くのだろう。

ルワンダの民族対立が、分割統治という植民地政策に原因があるとすれば、長い歴史をかけて作り出されるはずの階級や属性が、急速に人為的に作り上げられたために、階級や属性に伴うべき道徳や義務が定着しなかったことに混乱の根源があるのではないか。階級ごとに分割して秩序を作り、国を治めるのは西洋諸国の国内で行っていることで、彼らにとって合理的であり、正義であったのだろう。それを文化的な背景が全く異なる地域に適用しようと試みたのである。

西洋の統治が、差異や分割に基づく原理であるとするならば、東洋の統治は、調和や包括に基づく原理であろう。西洋の差異や分割のスタイルの背景には、西洋的な自我や個人主義という価値観が根ざしている。Godと人間は全くの別の存在ものであり、どんなに時代や環境が変わろうとも、両者は交わることがなく、GodはGodであり、人間は人間である。そうした二元論的な思考を思考を日常に当てはめれば、僕はいつも僕であり、あなたとは根本的な異なっていて、違いが当たり前であるという考えに行き着く。

東洋人が調和を重んじるのは、自らを取り巻く自然的な条件が影響を与えたのであろう。日本の俳句や和歌を紐解けば、どれだけ自然を愛し、自然と自らを同化させていたかが感じ取れる。彼らが自然を歌に読む瞬間には、主体と客体の明確な違いは消えてしまい、輪郭は溶けて、両者は一体になる。このような調和性が背景にある文化圏に、西洋にとっては安定や秩序をもたらす差異を前提にした社会システムを導入すれば、不毛な対立を煽ってしまうことになるのではないだろうか。憲法にしても立憲主義の考えが政府と国民の対立を不用意に起こしたり、選挙にしても政党間や住民間の対立が必要以上に煽られてしまう。

日本の近代史を振り返ってみても、明治維新の倒幕派と佐幕派、自由民権運動の官と民、戦後の右翼と左翼、このような対立的な潮流がある。もちろん両者の存在が切磋琢磨に繋がるならば良いが、身内同士で血で血を洗うことになってしまえば、本末転倒である。その意味では、東洋の調和の原理は、日本自身が最も求めているのかもしれない。

民族紛争にせよ、地球環境問題にせよ、近代的な社会システムが産み出した課題である。これからの時代に生きる僕たちは、共通の問題として取り組まなければならない。だから僕は、日本の憲法の議論が過去の議論に終始するのではなく、温故知新のように過去から新しい課題に向き合う姿勢を提示していくべきだと考えている。その中で見直されるべき調和という原理は、世界的な問題を解決する糸口になるのではないだろうか。

調和の原理とは、決して奇をてらった目新しいものではなく、僕たちの日常的な感覚にこそ存在している。憲法議論の射程にこうした東西の文明観も含めたほうがよいと思う。その内容は抽象的であるため盛り上がりに欠けるとは思うが、長期的な視野で見れば、議論の質に大きな違いが出てくるはずではないだろうか。

つづく。