今になってようやく本当の憲法の旅が始まったように感じる。今までの過程が旅立ちへ向けた準備段階であったとさえ思えるくらいである。これはあくまで僕の物語であり、他の多くの人に当てはまるものではない。しかし、同時代に生きて、同じ空気を吸っているならば、世代を超えて通じるところがあるかもしれない。人間には弱さがある。「このままではダメだ」と心のどこかで気づいていたとしても、過去の思考パターンや行動習慣から脱することができない。同じことをやっていても、もしかしたら違う結果が得られるかもしれないという淡い期待を抱いていたりするものだから、事態はかなり深刻かもしれない。

大きな秩序を維持するためには、どこかの小さな秩序を破壊しないといけない。三島由紀夫は「伝統を守るとは、伝統を創造することだ」と言っていた。三島由紀夫はこのピュアな思いを人生の最後まで突き通した信念の人物だと僕は思っている。何か新しいものを創造するというのは、既存のものと区別する一線を引くことであり、見方を変えればある種の過去との決別である。「守る=創る」は一見矛盾しているように見えるが、この矛盾を通して逆説的に継承されるものがあることを彼は知っており、その深層に「何か」を見たのだろう。そして、彼にとって決別するべきものは、自分自身であった。彼がその生命を懸けて伝えたかったものは、何だったのだろうか。今の僕にはその答えは出ていないけれども、探していかなければならない。少なくとも現段階で僕が理解できていることは「保身」という影は様々な形で自分に忍び寄ってくる。だから、保身の誘惑に駆られることなく、常に自分の心を保っていかなければならない。

僕は今年2月に自分で作成した憲法草案を公開した。公開後は、いろんな人と憲法について話す機会が増えたけれども、ある一つの決定的なことに気づいた。それは「憲法とは何か」を全く分かっていないことであった。もっと正確に言えば、これは身体的な感覚である。今まであった憲法の定義や通説を頭では理解していたけれども、どうやら自分の内面からそれらを納得できていないということであった。つまり、腹の底から「これが憲法だ」と確信を持って言えないという状態である。

大日本帝国憲法の制定には、井上毅が古事記や日本書記に「シラス」という統治理念を見出したように、憲法の制定過程には、歴史の発見というプロセスが必要不可欠である。明治時代に日本の若き希望が西洋社会に近代化の手がかりを探しに行った時に「憲法は国民精神・民族精神の発露である。日本の法は、日本の文化や歴史に根ざしたものでなくてはならず、西洋の真似ごとでは近代化に失敗する。」と西洋の法学者から追い返された光景が頭に浮かぶ。西洋のアドバイスを言い換えれば「日本という国の根っこを考えなさい。そして自分たちの内面を見つめなさい。」であろう。だから、自分たちが心の底から同意できない憲法は、いくら条文が美しくて理想的であったとしても、自分たちの憲法とは言えない。憲法であるかどうかは、外面的な権威や形式ではなく、僕たちの心が決めることである。ここを突っ込んで考えることを放棄すれば、憲法をきちんとした形で定着させることは永久に不可能である。

僕が自分自身で本当に納得する憲法を創るためには、歴史の発見というイニシエーションを自らが通らなければならない。井上毅は、僕が尊敬する人物の一人ではあるけれども、決して二番煎じに甘んじたくはない。僕が作成した最初の憲法草案は、妥協の産物であった。それはそれで意味はあったけれど、結局はいろんな人から好かれようという思惑があり、右やら左やらに迷う心があった。そうやって右往左往していると、最終的に自分がどこにいるのか分からなくなっていた。その最たる結果が「憲法草案を作ってみたが、憲法について何も分かっていない」という哀れな現実であった。

では、僕はどこに歴史の発見のスポットライトを当てようとしているかというと「発酵」である。ふざけているように思われるかもしれないが、真面目にやってみようと思っている。日本で言えば、味噌や醤油や日本酒に代表される発酵食品がある。これらの発酵食品の全ては微生物の働きの賜物である。発酵とは、人間に有用な微生物が働いている過程である。発酵の反対語は、腐敗であり、腐敗とは、人間に有害な微生物が働いている過程である。発酵も腐敗もどちらも微生物による働きであり、両者を分けるものは人間によって有益かという人間中心の尺度である。アルコール成分は微生物が生命活動をした結果に生まれた廃棄物であり、それがたまたま人間にとって好ましいものだったので、僕たちは微生物たちの生命のカスをありがたくいただいている。

自然の世界には、正義や悪は存在せず、全てのものが各々のミッションを忠実に果たそうとしている。田んぼで苗作りをしていれば、米の苗は大切にされ、稗の苗は引っこ抜かれて捨てられていく。米も稗も自らの生命を全うしているだけであり、人間が自分たちにとって有用か、そうではないかという基準で彼らを評価している。人間は植物のように光や水や空気などの無機物から自分が生きるために必要なエネルギーを作り出すことは難しい。人間が生きていくためには、他の生物の犠牲や死が必要である。それは動物の止むを得ない特性である。発酵という技術も人間が自然との向き合い方によって編み出され、民衆の間で長いこと継承されてきた生きるための知恵である。

発酵とは、そこら中にありふれた身近な現象である。発酵のお世話になったことのない人間はほとんどいないだろう。僕はそういう生活感が溢れる発酵の世界から憲法について語ってみたい。近代的な憲法を生み出した西洋社会は自分たちの日常的な世界から社会制度を作り出した。それは外から与えられたものではなく、自分たちの内側から湧き上がってきたものである。法律や憲法にある言葉は日常的なものが使われているそうだ。彼らの世界は、生活と社会制度や政治が一体であるのだろう。日本の場合は、今ある社会制度の多くは西洋から輸入されたものであるがゆえに、生活との温度差がある。政治や社会制度を語ろうとすると、綺麗に着飾って別の世界にお出かけしに行っている感覚が僕にはある。政治と生活は、分けられないはずなのに、政治の世界からは日常生活から見ると、どこかよそよそしさを感じてしまう。

発酵という技術は、無名の無数の民が地域の風土に合わせて作り出した知恵である。僕は憲法という文脈の中で、この民衆の歴史や物語を位置付けようとしている。今までの憲法の世界は、こうした民衆の物語をどこまで汲み取ろうと意識してきたのであろうか。そもそもこの視点が間違っている。憲法にとって民衆とは、取り込むべき客観的な対象ではなく、憲法それ自体である。憲法とは、民衆の心を土台にできているものだからだ。

世間では発酵食品や味噌作りなどで発酵ブームが起こっている。僕の知人の何人かは、味噌作りのワークショップを開催しているし、様々なものを発酵させて日々の生活を楽しんでいる。僕は、この動きを単なる一過性の流行だとは考えておらず、その深いところに民衆の大きなエネルギーの源泉を感じている。「発酵」がここまで社会的な運動になりつつあるのでは、いろんな理由があるはずだけれども、民衆の「土着性」や「自然回帰」を求める心にうまくマッチしたからではないかと考えている。世の中の学者は、こうした民衆の動きになぜ関心がないのであろうか。なぜ民衆の力を借りて、新しい社会秩序を作り出そうとしないのであろうか。もしかすると彼らは過去のイデオロギー的なものの見方でしか現実を切り取ることができないのかもしれない。

新しい秩序は、いつも混沌から生み出されるものだろう。新しいものは、得てして今までの分類の方法では捉えきれない「良く分からない姿」をしている。僕は発酵という社会現象に新しい社会の発芽を感じ取った。自分の中にあった様々な前提や常識を一旦脇において、発酵の世界に入り込んでみようと思う。発酵の世界から社会を見つめてみたい。成功するかもしれないし、失敗するかもしれない。でも自分たちの民草の力を信じている。右も左も保守も自由も革新も無政府も、みんな発酵させようではないか、そんな風に思っている。

最後に、僕に「発酵憲法」のインスピレーションを与えてくれた本から引用したい。寺田本家という酒蔵の当主である寺田啓佐さんが書いた『発酵道』という本である。

子供の頃から、「どうして争いがなくならないのだろうか」「争わなくても、生きていくことができないものだろうか」と思ってきた。学生時代には、平和運動や学園闘争にも参加したが、戦争に反対するセクト同士までもが対立し、争ってしまう現実に愕然とした。

どうしてだろう。なぜだろう。人と人が争うことが、不思議でならなかった。「こんなひどい世の中になろうとは、想像もつかなかった」近所に住む老人が嘆く。

テレビは毎日のように凶悪事件を報じ、いじめや暴力、恐喝は、日本中どこででも起こっている。見ず知らずの人への無差別殺人も、あとをたたない。家庭の根幹をなす親子関係もが壊れ、親殺し、子殺しへとエスカレートしてきた。世界中、紛争や飢餓、貧困、病気はやむことがない。自然破壊、環境汚染も加速度的に進んでいる。

老人が言うように、不幸がどんどん広がっている。広がっている不幸は、世界などという外の話ではなかった。私自身、身から出たさびで体を壊し、会社を倒産寸前にしてしまった。

どうしてだろう。なぜだろうとふたたび思うようになった。何か大切なものを見落とし、間違った方向に進んできたのではないだろうか。そう考えたとき、発酵醸造を生業とする私自身の世界を見つめた。発酵醸造という微生物の世界。その世界は、互いに支え合って生きる、相互扶助の力が大きく作用している。微生物の世界は、「愛と調和」で成り立っていた。それを見て、「人間も微生物のように、発酵しながら生きれば、争わなくても生かされる」ことを確信した。

目に見えない小さな生き物である微生物が、自然を学ぶうえで大きな手がかりとなった。微生物の世界は、生き物の世界。生き物の世界は、自然界。そもそも自然というものは、なんだろう。自然の仕組み、働き、力は、どうなっているのだろう。

自然界には法則がある。その法則をきわめようとした近代科学は、逆に自然界そのものから離れていったのではないのか。自然から遠ざかれば遠ざかるほど、不幸や病に近づくことになったのではないか。

その学びを進めるうちに、「発酵」と「腐敗」という二つのファクターが、すべての物事を考えるものさしとなり、自分自身が生きるうえでの指針にもなっていった。やっと見つかった。うれしかった。論語の「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」の心境だ。涙が止まらなかった。

混迷する世を救い、人として進むべき道を明らかにしてくれる鍵が、微生物の暮らし方のなかには、いっぱい隠されていた。人類が本当の平和、健康、幸福を達成する方法も、そこにあるのではないかと思う。

『発酵道』はじめに

微生物たちは自分の出番になるとスッと出てきて、スムーズにバトンタッチが行われ、出番でもないのにでしゃばったりはしない。そんな謙虚さも兼ね備えているし、それぞれが相手を尊重しながら生きているのだ。「オレが、オレがの世界」ではなくて「調和の世界」がそこにはある。

微生物たちの世界は、強い者が弱い者を餌食にしてしまう弱肉強食の世界ではなく、相互扶助の世界ではないかと思う。自分と異なるものや、嫌なものを排除したりしないで、助け合い、支え合いながら仲良く生きているように見えるし、相手を陥れようだとか、蹴落とそうだとか、微生物たちは考えたりしないはずだ。争わない、比較しない。生存競争など、どこにも見られないのが、微生物の世界であり、まさに生命の結び合いの世界なのだ。

いろいろな微生物が酒造りに参加することによって、生命の宿った酒になるというのは、その現れではないかと思う。雑菌を排除し、さらに排除しながら、純粋な菌を培養した酒は、生命のかけらもない「酒のようなもの」ができただけの話で、本当の酒ではない。微生物たちが喜んで働いているからこそ、本物の酒ができるのだ。

そんな微生物の一匹一匹は、ひとたび出番が来るとまさに命がけで働いて、自分の使命、役割を果たすだけで、見返りなどまったく期待しない。まさに「与えっぱなし」だ。人間たちのように、金も地位も名誉もなにも求めたりしない。私利私欲など、どこにもないのだ。

「微生物なんだから、当たり前じゃないか」と言われれば、それまでだが、私は彼らの世界をのぞけばのぞくほど、感心させられる。謙虚な姿勢でありながら、自分らしく、楽しく、仲よく生きているように見える。

そこは大きな共生の世界、仲よしの世界、感謝と報恩の世界だ。本来自然界は、動物の世界も植物の世界も、そしてこの人間界だって、同じような仲よしの世界だったのではなかったか。調和と愛の世界だったのではなかっただろうか。

『発酵道』P118

つづく。